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GAテーマ大賞で2次選考を通過した作品です。
某所にはタイトルを変更して投下すると思われます。だって恥ずかしいってレベルじゃないんですもの!
よい子のみんなも悪い子のみんなも、公募に出すときはタイトルをよく考えてからつけようね!


BGM:Idea(TVアニメ「ノエイン ~もう一人の君へ」OPテーマ)
『ぶきっちょアリスと聖バレンタイン戦争』


【前書き/プロローグに代えて】

 わたしの名前は夏木瀬奈。花が恥じらうにはまだ早い、十六歳の女の子です。何の変哲もない公立高校で華の女子高生やってます。
 名前の由来は昔のF1選手、アイルトン=セナ氏から。お正月に伯父さんから聞いた話によると、父がどうやら相当なファンだったらしく、語感もいいからと勢いでつけてしまったらしいです。なんとも傍迷惑な話ですよね。その名前を一生背負うことになる子供の身にもなってほしいです。まあ、世の中には『ピ○チュウ』と名付けるバカな親もいるらしいから、それに比べればまあまあまだマシと言えるかもしれません。それでも迷惑なことには変わりないんですけどね。
 個人的には普通の女子高生だと思ってるんだけど、友達からは『クールで無口な子』、とある先輩からは『ハードボイルド・アリス』って言われてます。ついでに頭も撫でられてます。まるで近所にいる野良猫みたいに。確かに自分でもたまーにちょっと醒めてるなぁと思うことはあるし、ときたま書いている書評も図書委員の人のと比べるとかなりドライで辛口だし、背丈も高校生の全国平均に全然届いていないけど、そんな極々一部の人々が大喜びしそうな属性は持ち合わせていないはずです。もっとも、主観と客観は得てして一致しないものなんですけど。
 話が逸れてしまいましたね。
 こんなことを書いているのは、久々に机の引出を覗いてみたら放り出してしまった日記帳を発見したからです。幸いネタもあることだし、徒然と書き込んでみようと思います。空白のノートってなんとなく寂しい気がしますし。
 今回は題名のとおり、バレンタインデーの時期に起こったちょっとした騒動を書き記してみるつもりです。ちなみに、題名には『戦争』なんて物騒極まりない言葉が使われていますけど、別に『戦争』が起こったわけではないから安心して下さい。まあ、わたしの心の中はちょっとした『冷戦』状態でした――といっても、勝手に独り相撲を取っていただけなんですけどね。
 っと、前置きが無駄に長くなってしまいましたね。そろそろ本題に入りたいと思います。
 事の始まりは、わたしの誕生日の前日――二月三日のことでした。


         1

 昨日に引き続き今日も雨。雨の日は湿気が多くて、髪の毛が言うことを聞いてくれないからあまり好きじゃない。セーラー服も湿気を吸って何だか重いし。けれど雨だれの音が好きだから、嫌いなのはだいたい三〇パーセントくらい。我ながら中途半端とは思うけど、そこは乙女心と言うことで許してほしい。それはとろーっとしていて、甘くて、でもどこか粉っぽい。喩えてみるなら半生のホットケーキ。あるいは、粉っぽくはないけど半熟卵。個人的にはどっちもあまり好きじゃない味。
 あまりにも思考がバカらしくなってきて、思わず溜め息が一つ漏れた。まあ、こんなもんか、と諦め半分の気分で脱いだローファーを下駄箱に入れる。
 そんな風にして朝っぱらから昇降口で黄昏れていると、いきなり背中をバッシーンと思い切り叩かれた。スナップの利いた見事なアタック。直後、「おーっす、おっはよう!」二日酔いの人なら一発でノックアウトしてしまいそうなほど元気な声が響き、左側から愛嬌のある笑顔がぬっと視界に入り込んでくる。ついでに水滴が少し顔にかかる。草壁涼子。わたしの友達その一。
「おはよう」
 向き直って返答すると、タオルでごしごしと乱暴に髪を拭きながら、わたしの頭をバシバシと軽く叩く。
「なぁに朝っぱらから辛気くせぇ顔してんだよ。徹夜で本でも読んでたのか?」
「違うよ。ただの低血圧」そうでなくても、熱血バレー部員様のテンションには敵いません。だってわたしは根っからの文化系――と呼べるかどうかすら怪しい新聞部員ですもの。
 わたしの答えがよほどおかしかったのか、涼子は笑ってわたしの頭を乱暴に撫で始めた。ああ、苦労してセットした髪が……マスコットキャラはつらいよ。ま、こういうのも悪くないけどね。だいたい五〇パーセントくらいの割合で。我ながらなんという半生っぷり。
「やめなよ、涼子。あんまりすると瀬奈がかわいそうだよ」
 控えめと言うより若干腰の引けた声でそう言うのは、涼子と同じく友達である日向渚。いつもはふんわりとしているソバージュの栗毛が、今日はちょっとだけ寝癖っぽくなっている。その下にはいつもと同じ、ほんのりと暖かみさえ感じられる苦笑顔。
「でもさ、瀬奈って何かこう無性にいじりたくならねぇ?」
「うーん、まあ、そうだけど……でも髪の毛長いから、セットとか結構大変そうだし」
「そうなのか?」
「少なくとも髪の短い涼子よりは大変」髪が長ければ、その分ケアに手間がかかるのは当然なわけで。
「あー、悪ぃ悪ぃ。つい、な」
「別にいいよ。もう慣れたから」それに、こういうやりとりはそこまで悪くない。
 そんないつもどおりの朝。


 そんな“いつも”から少しズレたのは、昼休みのことだ。
 いつもどおり教室で三人机を寄せ合って、昼食を食べながら他愛もない話をしていると、そのうち森宮くんの話題になった。
 森宮くんこと森宮淳は男子バレー部に所属している、顔は俗に言う爽やか系な男子――というかクラスメイトだ。要するに汁も滴るいい男なんだけど、どちらかというと女顔なので決して漢などではない。それが理由なのかは分からないけど、女子からはそこそこ人気がある。ちなみに渚もそんな集団の一人で、だからたぶん涼子は気を遣って話題に上げたんだと思う。
 話の内容はなんと言うことはない、「あいつ、一年なのにレギュラーに選ばれた」とか「彼奴の動きはなめらかでしかもフォームがきれいじゃ云々」とか、スポーツマンシップに則った健全なこと極まりない話題だったんだけど、そのとき渚の顔が一瞬だけ曇ったのだ。
「ん? 渚、どうかしたのか?」
「えっ、何にもないけど?」
 渚はおどおどしながら、わたしと涼子を交互に見やる。
「中学からの付き合いだろ? 何となく分かるって」
「明らかに挙動不審だしね」
「うぅ……」二人から集中砲火を浴びて、気の弱い渚は箸をくわえて縮こまる。
「それで、何かあったのか?」
「吐いたらたぶん楽になるよ。さあ、ヒッヒッフー」
 華麗なる連携プレイなんて出来るはずもなく、案の定「それ、ラマーズ法……」と苦笑混じりのツッコミを頂戴した。うん、苦笑できるならまだ大丈夫そうだ。
 幸い森宮くんは教室にいなかったので、しばらく躊躇うような間があった後で、渚はゆっくりと話し始めてくれた。話の内容はこれまたよくある内容で、「森宮くんが女の人と一緒にいるのを見た」というもの。
「渚、お前神経質になりすぎだ。何回目だよそれ」
「通算六回目ね」ちなみにオチは、森宮くんの姉が二回、妹が一回、親戚の女の子が二回というかなーりありがちなもの。「さすがにそろそろ……ね、涼子」
「さすがに六回目じゃなぁ。告った方が速いんじゃねぇか?」
「むー、出来たらこんなに苦労しないよ」と渚は子供っぽく頬を膨らませる。
「まあ、そうか。確かに好きだったらそりゃ気にもなるよなぁ。こういう場合は特に」
 溜め息混じりにそう呟いて、涼子は椅子にもたれて天井を仰ぎ見る。結構きついことも言うけれど、江戸っ子気質のある彼女には、結構情に脆いところがある。
「よっしゃ」渚に向き直って、「ちょっと調べてみる。どこまでやれるか分からないけどな」
「ありがとう……」渚の膨れっ面がほんの少し和らぐ。
 こうなったらわたしも動かないわけにはいかない。
「じゃあ、わたしも調べてみる」
「瀬奈も、ありがとう……」
「いいよ、そんなに手間もかからないから」
 なんだかんだで引き受けてしまうわたしも、結構情に脆いのかもしれない。


「新聞部員は三つに分けられる。野次馬根性が高じたジャーナリスト気取りの覗き魔、文章を書くのが大好きなダンゴムシ、クラブの活動そのものを楽しんでいる大バカ野郎――この三つだ」
 そんな迷言を残したとある先輩が言うには、わたしは二番目に属するらしい。何となく失礼しちゃいます。確かに文章を書き始めるとついつい長くなってしまうけど、そこまで楽しいとは思っていないし、何よりわたしは人間であって決してダンゴムシなんかじゃありません。
 ちなみにその先輩は三番目のタイプで、日がな一日部室に引き籠もって、家から持ち込んだテレビとPS2でとあるゲームのシリーズをやりこんでいた。
 それでもこの部が存続できていたのだから、「新聞部、驚異の生命力!」と言うべきなのかもしれない。だからどうした、と言われればそれまでだけどね。


 授業がすべて終わった後、わたしはおよそ一ヶ月ぶりに部室へ足を伸ばした。
 新聞部部室は築二十年以上経っていそうな部室棟の二階、その一番奥にこぢんまりと存在している。しかしそこの表札に躍っているのは『ボディビル部』という文字。長らくその部には部員がいないのだが、なぜか中からは有名な映画のテーマ曲が普通に聞こえてくる。
 要するに我らが新聞部は、廃部になって空いている部屋を占拠しているのだ。学校にクラブとして認可されていないゲリラ部なのに。けれど幸いなことに、文句を言ってくる人はいないらしい。いるとしても、部長が表沙汰にならないうちに握りつぶしてるだろうけど。
 ドアを開けると、ホコリとカビと薬品のにおいとともに、長机や散乱したパイプ椅子、壁際に堆く積まれた段ボール箱の山(中身はマンガの単行本)という、記憶通りの風景が目の前に現れる。
 部屋の一番奥には、畳を敷いているスペースがある。そこのコタツ――通称『部長席』に入って、何やら真剣な表情でノートパソコンと対面している男がいる。身長百九十センチはありそうなその巨漢の名前は綾小路康一郎。なぜかいる彼女からの愛称は『きみまろ』。三年生なのに今現在も部長をやっている物好き、というかただのバカ。もしかするとお味噌の中に筋金が入っているのかもしれない。
 わたしの訪問に気づいた部長は、短すぎず長すぎずな髪の毛をさらりと靡かせながら視線をこちらに向けて、眼鏡の奥にある鋭い目を訝しげに細めた。どうやらお邪魔虫だったみたい。
「夏木君、今日は招集をかけていないはずだが?」
「部員であるわたしが来たら悪いんですか?」
「もちろん悪いとも。今は極秘の作業中だからな」
「えー、もしかしなくてもアレですか?」
「ああ、全くもってアレだ」
「それはそれは。ご苦労様です」
 紙よりも薄っぺらい労いの言葉を述べて、わたしはぺこり、とお辞儀をした。きっちり四十五度の最敬礼。敬意の欠片もないけど、たまに来るには悪くないこの場所を確保してもらっているんだから、それくらいの行為も吝かではない。
「それで今回の調子はどうですか?」
 すると部長は苦虫を噛み潰したような顔で頭をガリガリと掻きながら、天井を仰ぎ見る。
「前回に比べればまあまあ上々だな。やはり人間、叩けばホコリみたいに出てくる出てくる。それこそ山のようにもっさりとな。今回は多すぎて逆に面倒なくらいだ」
「へぇ、よかったじゃないですか」なら素直に喜べばいいのに――あ、作業に飽きたってことか。
「あとは切り出すタイミングだな。こればっかりはどうにもならん」
 そう言ってふぅー、と長い息を吐くと、ノートPCを閉じてわたしに視線を向けた。
「で、用件は何だね?」
「実はかくかくしかじかでして、いつものやつをお願いしたいのです」
「ふむ、まるまるうまうまというわけか。ふむ……しかしあれだな、こんな古典的なやり取りだけで分かるほどになってしまうとは、夏木君もなかなか難儀な友人を持ったものだな」
「乙女心はそれくらい難儀で複雑怪奇なシロモノなんですよ」たぶん。わたしにはよく分からない。「で、引き受けてくれるんですか?」
「どうせ拒否権はないのだろう?」
「ええ、もちろん」
「……まあいいだろう。この作業にも飽きてきたところだしな。いつまでに上げればいい?」
「出来る限り早いほうがいいですね」
「よろしい。漢・綾小路の名にかけて、明後日までには上げてみせよう」
「よろしくお願いします」ぺこり。「ところで部長、一つ訊いてもいいですか?」
「何だね」
「頼み事をしておいて何ですが、大学受験の方はいいんですか? 三年生はもうとっくの昔に引退しているべき時期と思うんですけど」
「ああ、全くもって何の問題もない。これでも合格できる程度にはやっている」
「はあ、さいですか」
「まあ地元の国立が第一志望だしな。もっとも、あいつは少々苦労しているようだが」
 なら大丈夫そうだ。学部にもよるけど偏差値はそれほど高くないし、部長の頭なら楽々合格出来るだろう。
「で、その彼女さんとはうまくいってるんですか?」
「いわゆる倦怠期に入っているとでも言っておこうか」
 三年間も付き合ってたら嫌でもそうなりますって――たぶん。まあ、仲が良さげで何よりです。お大事に。
 そんな話をしばらく続けた後、用もなくなったわたしは半ば追い出されるようにして部室を出た。
 階段を下りながら、念のため鞄の中身を確認する。少しの間まさぐっていると指先にパスケースの感触。中には定期ではなく、一年前の合宿(という名の心霊スポット巡り)のときに驚いた拍子にうっかりわたしに抱きついてしまった部長の写真が入っている。どう見ても幼女を襲っている変態にしか見えないからと、卒業式のときに、迷言を残した人とは別の先輩が第二ボタン代わりにくれたブツだ。まさに『情報は力なり』。
 そしてその写真を彼女に見せようとするわたしは結構鬼畜だなぁと我ながら思う。そんなわたしといい、ブツをわたしに渡した先輩といい、ホント、渡る世間は鬼ばっかり。
 ちょっと悪い気はするけど、部長に少し働いてもらうことにしよう。大バカでも情報収集に関したらかなり有能だから。
 もしかすると、こういうところがハードボイルドっぽく見えるのかもしれない。ま、本人は至って“半生”なんだけどね。


 帰り道に通る駅前の商店街は、節分から少しずつ二月のもう一つのイベント――聖バレンタインデーの色に染まりつつあった。さて、今年はどうしようかな。別にあげる人もいないし。
 そんなことを少しだけ考えつつ、駅内のブック・ファーストで立ち読みをしていると、不意に左肩をポンポンと軽く叩かれた。振り向いた途端、事前に用意されていたらしい人差し指が頬にぐっさりと突き刺さり、同時に大人っぽさと子供っぽさが同居した見覚えのある相貌が目に入る。そこに浮かんでいるのは、屈託の全くない微笑み。
「セナちゃん、久しぶりっ」
 つい数十分前に噂になっていた御仁が、少し濡れたブレザー姿でそこにいた。星野加奈さん――隣の市の高校に通っている、部長の彼女さん。
 例の写真をくれた先輩によると、部長とは中学校以来の付き合いだとか。墨を流したような長い黒髪といい、大人っぽいスタイルといい、ドロップキックのときのフォームといい、どうしてよりによって部長の彼女になったのか不思議なくらいきれいな人なのに。
 呆気にとられながらも「あ、どうも……」と小声で挨拶すると、よほど可笑しかったのか、星野さんはプッと小さく笑いを漏らした。
「そんなに可笑しかったですか?」
「ごめんね。そんなに素直に引っかかってくれるとは思ってなかったから」
 星野さんはそう答えて、顔にかかった髪を掻き上げる。この人の感覚はよく分からない。感受性が豊かなのか、はたまた笑いの沸点が低いだけなのか。
「それで、何読んでるの?」とわたしが手にしている雑誌の表紙を覗き込む星野さん。
「ただのお菓子作りの本です」
 そう言ってわたしは雑誌を閉じて、星野さんに表紙を見せてあげた。そこにはずらりとお菓子が並べられた写真があり、『バレンタイン特集!』という文字が大きく躍っている。
「へぇ、お菓子とか作るんだ」
「いえ、単に知識として蓄えているだけです」
 とてもじゃないけど、渚みたいに美味しく作ることは出来ない。この雑誌を読んでいたのも、渚がたまに作ってきてくれるお菓子がどんな風にして作られているのか、ちょっとだけ興味をそそられたからだ。たったそれだけの理由。色気もないし食い気もない。
「お世辞にもこういうのが得意とは言えませんし」
「こういうのは気持ちが大事って言うけど?」
「いや、ある程度は味も重視した方がいいと思いますよ……」
「うーん、やっぱりそうかなぁ」
「そうですよ、きっと」
 ……あれ? ちょっと待って。
「あの、もしかして勘違いしてません?」
「えっ、バレンタインの話じゃなかったの?」ちょっと前のめりになってしまった。
「違いますよ。それとは何の関係もありません」
「なーんだ、ちょっと残念。で、当日は誰にあげるの?」
「えーっと……」とりあえず流しておくことにする。「まだ決まってません。でも、あげるとしてもたぶん友達くらいだと思います」
「そっかー……」
「星野さんはどうなんです?」
「ちょっと悩んでるとこ。きみまろってチョコとか苦手だから、どうしようかなって」そんな風に答える星野さんはすごく嬉しそう。一抹の寂しさが胸の中をよぎる。
「なんだか、子供の好き嫌いを直そうとする母親みたいですね」
「そうかなぁ?」星野さんはさくらんぼみたいな唇をすぼめてちょっと考えた後、にっこりと子供のように笑った。「まあ、ちょっとだけ似てるかもね」
 そう言ったところで、星野さんの携帯電話が津軽海峡冬景色の渋いメロディを奏で始めた。
「あ、やばっ」と星野さんは呟くと、別れの挨拶もそこそこに出口に向かって走り出した――と思ったら、その寸前で引き返してわたしの方に戻ってきた。
「危ない危ない、忘れるとこだったよ。一日早いけどごめんねっ」
 そう言うと星野さんは鞄から白い封筒を一つ取り出して、わたしに手渡してくれた。
「あ、ありがとうございます」
「それじゃ、まったね~」
 わたしがお礼を言い終わるよりも先に、彼女は駆け出して店の外に出て行ってしまった。よほど急いでいたらしい。暗いし雨も降っているから、親に迎えに来てもらったのかもしれない。
 帰り道で封筒の中身を見てみると、そこにはヘアピンが入っていた。しかも結構な数が。試しに一本取り出してみる。それには木目のような模様が入っていて、先の方には金属製の小さな桜の花があしらわれていて、ヘアピンというよりは小さな簪みたいだった。
 ごそごそと中身を覗き見ているうちに、紙が入っていることに気づいた。レターセットに入っていそうな、可愛いキャラクターの描かれた便箋。そこには、『お誕生日おめでとう! どれが似合うかなぁって迷っちゃったけど思い切って全部あげちゃいます! これからもよろしくね!』と小さなうさぎのイラスト付きで書かれていた。
「義理堅い人だなぁ……」
 思わずそんな言葉が漏れた。もう会う機会もそんなに無いんだから、別にここまでする必要はないのに。ま、これも星野さんの性格なんだろう。
 素直に喜びきれないもやもやとした気分になりながら、わたしは雨の降り続く中、いつもより少しだけ遅い帰路に就いたのだった。


         2

 Happy birthday to me~♪ 十七歳の誕生日おめでとう、わたし。ただ単に一つ年を食っただけなんだけど、星野さんや友人たちが祝ってくれたので何となく自分でもそうしてみました。寂しい子とか残念な子とか言わないように。
 やっと花も恥じらってくれるようになった輝かしい日の空模様は、雨こそ降っていないけれど、重苦しい灰色の雲が空一面に広がっているという生憎の天気。けれど涼子から黒い革製のブックカバー、渚から小さな手作りアップルパイをもらって、わたしの心は快晴街道まっしぐら。物に心を動かされるなんて、意外とわたしも単純なのかもしれない。
 その後、涼子からの報告があった。曰く、森宮くんにはまだ彼女がいないらしい。予想通りの結果。けれど渚がほっとするのを見て少し嬉しくなる。誰にでも当てはまるけれど、人の表情を見るならやっぱり、沈んでいるのよりもこういうやつの方がいい。何となくだけど、心が温まる気がするから。
 さて、わたしはどうしようかな。いつも部長にばっかり働いてもらっているから、もうちょっと自分で動いてみた方がいいのかも。


 なんてことを思っていたら、放課後に携帯電話からエクソシストのテーマが流れてきた。部長からのメール着信。内容は『調査報告をしたいから部室に来たまえ』というもの。予想を上回る速さ。この人、新聞部員よりも探偵の方が向いているんじゃないだろうか。
 部室に行ってみると、部長はパイプ椅子に座って待っていた。気のせいか、ちょっと不機嫌なご様子。そして机の上には、A4サイズの紙が入ったクリアファイルが置かれている。
 挨拶も早々に部長の向かいに腰を下ろして、ファイルから計三枚の資料を取り出した。
 一ページから二ページ目には、森宮くんのプロフィールが記載されていた。生年月日、郵便番号に現住所とすぐに分かりそうなものから、家族構成(なぜか家系図付き)、中学校以降の交友関係、異性との交際歴まで箇条書きでびっしりと。これじゃプライバシーもへったくれもない。ちなみに部長曰く、小学校以前の経歴がないのは、一度引っ越しをしていてそれ以上足取りを追えなかったかららしい。でも――
「こう何回も見せられると嫌でも憶えちゃいますよ。いちいち読むのも面倒ですし、今度からこの行程省略しませんか?」
「通過儀礼みたいなモンだと思って我慢してくれ」と部長も少々うんざりしているご様子。
 続いて三ページ目には、昨日の行動記録がつらつらと書き連ねられていた。聞き込み調査がよほど面倒だったのか、昨日はあれから彼を尾行していたらしい。職務質問とかされてないといいけど。部長ってよく怪しい行動をするから。
 今頃そんな心配をしてもしょうがない。気を取り直して資料に目を通すことにする。
 掻い摘んで言うと、結果は黒だった。森宮くんは下校した後、駅前で一度電話をかけている。その後、彼は書店から出てきた女性と合流し、ちょっとした買い物を楽しんでいたらしい。そして彼女の家に行って、一時間後に出てきてそのまま帰宅。資料はそこで終わっていた。
 ここで部長らしくない不備に気づく。
「部長、どうして相手の名前がないんですか? あとターゲットの家までの足取りも」
 三番目のタイプの人間――大バカ野郎を体現する部長は、その名に恥じず新聞部員としては本当に完璧だった。以前同じような調査を行ったときは、一緒にいた相手の素性までも洗いざらい、それこそ偏執狂と言ってもいいくらいの徹底ぶりで資料として提出してくれたほどだ。二人分の家系図なんて何の意味があるんだろう。
 今回、そんなものがないということは、
「何か隠してますね?」
 質問してみても、部長は何も答えない。超然とした態度で腕を組んで座っているだけ。前髪に隠れてしまっているから、どんな表情をしているかは伺えない。
 しかしこちらにも意地と大義名分がある。なので、じっと見つめることにした。
 蛇と蛙みたいな構図がしばらく続いた後、気まずくなったのか部長はゆっくりと顔を上げた。その顔には、普段は絶対に見せない無駄に爽やかな笑みが貼り付いていた。
 そして一言。
「言わなきゃ、ダメかな?」
「ダメだよ♪」即答してやった。無駄に媚びた笑顔を添えて。
 一瞬にして部長の顔から笑みが消え去って、どこか憮然とした――というか憂鬱な表情になる。魂が全部抜けてしまいそうなほど長い溜め息をついて、それから呟くようにして言った。
「加奈だった」一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「――はい?」
「聞こえなかったのかね? 相手は星野加奈だ」そう答えると、部長はもう一度長い息を吐いて、真っ白に燃え尽きたボクサーよろしく俯き加減で椅子にもたれかかった。
 部長が『加奈』と名前で呼び捨てにする人間、『星野加奈』というフルネーム。わたしの知る限り、そんな人物は一人しかいない。部長の彼女さん。昨日ブック・ファーストでちょっとズレた会話をしたときの、嬉しそうな笑顔が浮かぶ。あの電話の相手は森宮くんで、店を出た後で彼と逢っていたのだろうか。
 ぬるりとしたものが心の底に湧く。他人様に決して見せられない、何とも形容できない嫌な感情。それはどす黒くて火が点きやすくて、何となくタールに似ている気がする。
 それが発火しそうになるのを抑え込んで、部長に感付かれないように小さく溜め息をつく。ただ単に気づいていないだけで、事件というものは案外近くで起こっているらしい。
「それで、部長はどうするつもりなんですか?」
「さあな、しばらく放っておくつもりだが?」いつの間に立ち直ったのか、部長の顔が元の仏頂面に戻っていた。意外なことに、そこまで衝撃を受けたわけでもないらしい。
「疑わしきは罰せず、ですか?」
「確かに似ているかもしれん。これは一種の防衛手段だ」
「防衛手段?」
「夏木君、人の縁が長く続く秘訣を知っているかね?」わたしが首を横に振ると、部長は続けた。「それは『付かず離れずの関係を維持すること』だ。――何とも間の抜けた顔をしているが、そんなに意外だったかね?」
「いえ、それと何の関係があるのかと思いまして」
「なぁに単純なことだよ。あまりくっつきすぎると、何事もすぐに飽きてしまうということだ。美人は三日で飽きるとはよく言ったものだよ、全く」
「つまり部長は、あまり星野さんの秘密に立ち入りたくないと?」
「そのとおりだ」そう言ってわたしの目をまじまじと見つめて、「何か不満かね?」
 弱みを握られているのを感じさせない、はっきりとした物言い。不覚にも少しだけ萎縮してしまう。
「こっちには一応大義名分があるんですけど」
「夏木君は知りたいというわけだね?」
 思わず言葉に詰まる。ややあって、わたしは部長の言葉に頷いた。
「わたしは友達から依頼されているから、中途半端に終わらせるわけにはいかないんです」
 嘘だ。
「なるほど、一理あるな」そう答えて部長は意味深にニヤリと笑う。「よし、夏木君の言うとおりにしよう……しかぁし!!」いきなり接続詞を叫んだ次の瞬間、それに負けないくらい大きな唸りが部室に響き渡った。まるで特撮に出てくる怪獣の鳴き声。
「とりあえず何か食べに行かないかね? こちとら昨日から何も食っとらんから、腹が減ってしようがないのだよ」
 そう言われてようやく、さっきの音が部長のお腹の音だということに気づいた。あまりにバカらしくて笑いも出なかった。


 その数分後、わたしと部長は屋台でラーメンを啜っていた。店の名前は『虎の穴』。神出鬼没のラーメン屋として、この辺りの人間にはそこそこ知られていたりする。
 わたしたちがそんなところにいるのは、たまたま前を通りかかったからだけではない。
 ずるるーと熱々の麺を啜るわたしの前にいる若い男の人が、ここで夕食を摂ることにした主な理由。この寒い中、黒いタンクトップ一丁という暴挙を行っている彼の名前は篠崎伸也。なぜ名前を知っているのかというと、この人もかつて新聞部員だったから。わたしより二つ上の先輩で、卒業祝いにあの激写写真をプレゼントしてくれた鬼畜で、かつての通称はドS先輩。ちなみにこの人は、一番目の『覗き魔』タイプに当て嵌まる。
 早速事情を聞き出した篠崎先輩は、何が面白いのか、狐みたいに細い目を更に細めてケラケラ笑い始めた。元々かなり女っぽい顔だから、その仕草はまるで大河ドラマに出てくる女御みたい。
「へぇ~、久しぶりに来てくれたと思ったら、そんな面白いことになってたのかぁ。何なら僕も手伝ってあげようか?」
「いえ、俺たちが引き受けた以上、自分たちで何とかするッス」もやしとネギを口いっぱいに頬張りながら、なぜか体育会系の口調で部長は答える。
「あれ、てっきりそうかと思って期待してたのに」
「たまたまッスよ、たまたま」
「そりゃ残念。経過報告してもらおうかなって思ってたのに」
「ならお店の場所を一ヶ所に決めたらどうですか? 篠崎先輩の家って、確かラーメン屋さんでしたよね?」
 口の中にあったものを全部飲み込んでから尋ねてみると、
「チッチッチッ、甘いなぁアリス。ロリポップ並に甘い」
 言葉の意味を掴み損ねて首を傾げていると、部長が横から小声で理由を告げてくれた。
「先輩はまだ修行中の身なのだ。店の名前の意味をよくよく考えてみたまえ」
 ああ、なるほど。『虎の穴』――正確には、『虎穴に入らずんば虎児を得ず』。つまりは、生きるか死ぬかの瀬戸際で修行をしているということらしい。
「まあ、大雑把に言うとそんなトコだね」
「結構大変なんですね」
「君らの状況に比べれば大したことないさ。こんなでも、食うに困らない程度には繁盛してるしね」そして考え事をするように顎に手を当てて、「まあ困ることと言ったら、みんな注文するときに僕のことを『親父』って呼ぶことくらいかなぁ。ほら僕ってまだ一応硝子の一〇代だからさ、そんなこと言われたらちょ~っと悲しくなるわけよ」
 そう言ってまたケラケラ笑う篠崎先輩。けれど、浮かべている笑顔がちょっと嘘っぽい。
 結局会議はそれほど進展せず、調査方法は部長に一任するということで一応の結末を見た。篠崎先輩が聞き耳を立てている中じゃ、部長もやりにくかったのだろう。なのにこの店に入ったのは、先輩からの報復(という名のちょっかい)を恐れたからかもしれない。篠崎先輩は自分の楽しみのためなら手段を選ばないところがあるから。そういえば部長、女装した先輩に抱きつかれたところを彼女さんに見つかって、問答無用で鳩尾にドロップキックを食らったことがあったっけ。
 そんなことを考えているうちに丼が空っぽになった。同時に部長も食べ終わったらしく、丼を置くタイミングが重なる。その瞬間、篠崎先輩の細い目がほんの少しだけ開いた。出刃包丁の先端くらい鋭い、まさに料理人の目つき。
 一瞬で料理人モードにチェンジした篠崎先輩を見つめてから、はっきりと大きな声で告げる。
「親父、ゆで卵」と部長。
「親父、おかわり」とわたし。
「ぁいよぉっ!」と威勢のいい声で答える篠崎先輩。脊髄反射みたいな反応。
 それから間髪入れずに調理を始めるその姿は、わたしみたいな素人目から見ても悲しいくらい板に付いていた。こういうのを『板前』って言うのかな、なんてことを考えてしまうくらい。
 そりゃみんなから『親父』って言われるよね。合掌。


 部長は出てきたゆで卵を丸飲みすると、「作戦を練る」と言ってさっさと帰ってしまった。他にお客さんがいないから、屋台にはわたしと篠崎先輩の二人だけ。一人いなくなっただけなのに屋台の中がやけに広くなったように感じるのは、きっと部長の体格が無駄に大きいから。わたしの前にあると洗面器くらい大きな丼が、部長の前にあるとなぜか普通のサイズに見えるくらいだし。いや、これは単純にわたしが小さいからなんだけど。
「どうしたんだい、『ハードボイルド・アリス』? そんな浮かない顔して」
「いえ、ちょっと広くなったなぁと思いまして」
 素直な感想を言ってみたのだけど、どうやら逆効果だったみたい。能面のような笑みをニヤニヤ笑いに変えて、静かに麺を啜るわたしをじっと見つめてくる。
「アリスは、これをチャンスだとは思わないんだ?」不意に先輩が独り言のように呟いた。
「何のですか?」
「いや~、略奪愛とかお好みじゃないのかな~って思って」
「――ッ!」唐突すぎて危うく麺を噴き出すところだった。
 そんなわたしに気づいているのかいないのか、篠崎先輩は続ける。
「あれはあれで結構ショック受けてるから、案外簡単にコロリといってくれるかもよ?」
「別に、そんなことするつもりはないです」
「アリスって意外と潔癖性なんだね。あの写真もほとんど使ってないみたいだし」
「そういうのは、個人的にどうかと思いますけど」
「まあ普通はそうだよねぇ。でも真面目な話、アリスはもうちょっと自分に正直になってもいいと思うよ」
「……どういう意味ですか?」嘘だ。本当のところは、自分が一番よく分かっている。
「ま、アリスがそれを望むのなら僕はいいんだけどね」意味深な笑いを漏らしてから、先輩は急に真面目な顔になって言った。「でもホント、今のあいつ結構無理してると思うよ?」
「そうですか?」薄々気づいていたけど。
「うん。だってさ、付き合ってるヤツが浮気してるかもしれないって思ったら、すぐにでも確認したくなるのが人情ってモンだよ。それを確認しない――出来ないのは、遠慮でも思慮でもなく単に臆病だからさ」
 そんなものなんだろうか――いや、案外そんなものなのかもしれない。
「もっとも、あいつってバカみたいに真っ直ぐ、悪く言えば単なる暑苦しいバカだから、捻くれまくった僕には全く見当もつかない別の理由があるのかもしれないけどね」
「はぁ……」なら自分にも分かりそうにない。
「だからさ、不安になってる今がチャンスだと思うよ?」
 そして、大事なことだから二回言いました、と付け足してお茶を濁した。
 確かにそうかもしれない。けれど――
「もうこのことについては割り切っていますから。それに、わたしは勝てる勝負しかしない主義なんです」
 白か黒か、成功か失敗か、勝つか負けるか――世界はいつもこの二択で動いている。さながら0と1しか選択肢がないデジタル信号。それなら当然、自分の有利な方に持って行った方がいいに決まっている。
 やっと言葉を絞り出したわたしに、けれど先輩は容赦なく正論を突き付ける。
「でもさ、アリス自身はどうなんだい? アタマじゃなくてココロの方ね」
「それは……」言葉に詰まる。これ以上喋ると、何か変なことを言ってしまいそうで。どろりとしたものを抑え込むのに必死で。
「諦めたつもりでも、割り切っているつもりでも、実際のところは案外そうでもないんだよねぇ。人間のココロって、デジタルなようで結構アナログだから」
 図星だった。もう言葉も出てこなかった。
 わたしの負け。結局わたしは全然割り切れていない。どうしようもなく半生のままなのだ。0でも1でもないから、負けても勝ってもいないから――まだスタート地点に立ってさえいないから。もっとも、最初から結果は分かり切っているんだけど。
 そんなわたしを見て、先輩は小さく溜め息を漏らした。
「まあ、アリスの好きなようにすればいいと僕は思うよ。『たったひとつの冴えたやりかた』なんて、人によってまちまちなんだからさ」
 能面みたいな笑いでもニヤニヤ笑いでもない普通の笑みを浮かべて、先輩は最後にそう言った。いつものように、どこか投げやりな調子で。
 わたしの好きなようにすればいい、か……。それさえ分かってくれれば、こんなに苦労しないんだけどね。まあ、“自分自身”はこの世界で一番理解しやすくて、それでいて一番理解できない奇妙な生き物だから、しょうがないと言えばしょうがないんだけど。


 一体いつからあのバカ部長を意識し始めたんだろう。誰かさんの歌みたいに「あの日、あのとき、あの場所で」みたいにはっきりとは思い出せないけれど、気がついたときにはもうそんな風になっていた。だから正直なところ、部長のどんなところを好きになったのかもよく分かっていない。こういうのが初めてだからかもしれないけど。
 別に側にいたからといって心臓が高鳴るわけでもなく、部長の姿が頭から離れなくなるわけでもない。ただ単純に、部長の側にいるとほんの少し心が落ち着くだけだ。そのときの心境はなぜか、猫を可愛がっているときのものと驚くほどよく似ている。部長と猫が同類だなんて、猫に対して失礼なことこの上ないのに。
 湯船に浸かって天井に上っていく湯気をぼーっと見つめながら、そんなセンチメンタルなことを考えていた。
 湯船から立ち上った白い湯気は、天井の手前で消えてしまっている。そして消えてしまった湯気は、やがて滴となって下に落ちてくる。重力に従って、元々持っていた温度を完全に失って、本当に呆気なく落ちてくる。
 そういえば、篠崎先輩から星野さんの存在を教えてもらったときは、どんな気持ちだったっけ。案外素直に受け止めたような気がするけれど、やっぱりはっきりとは思い出せない。もしかすると、心のどこかで思い出すことを拒否しているのかもしれない。
 でも一度は――いや、何度も諦めようとした。部長が星野さんの話をしているところや、実際に彼女といるところを見て、やっぱりわたしじゃ無理だと、二人の間に入り込めないと思ったから。そのときは胸がほんの少しだけ痛んだし、ほんの少しだけ苦しかったような気がする。
 けれども諦められなかった。『ハードボイルド・アリス』って呼ばれているくらいだから、斜に構えるのは得意だから、簡単に出来ると思っていたのに。だからわたしは『半生』。今はお風呂場にいるから、期間限定で『温泉卵』かな。
 そんな中で今回の出来事。正直ちょっと調子を狂わされている。
 アタマでは、もう大体の推論は出来ている。そしてそれはたぶん正しい。細かいところは全く分からないけれど、結論には全く影響しないから別に気にならない。
 けれどもココロでは、それとは別の結末を望んでいる。アタマではありえないと分かっていながらそれを望んでしまっている。もっと底の方――どろりとした部分では、それこそ篠崎先輩が言っていたようなことさえも。あまつさえ、その結末を部長に確認させたがっている。大義名分なんて偉そうなことを言ったけど、それだって半分くらいはハッタリだ。渚のためでも部長のためでも誰のためでもなく、結局は自分のための方便。
「嫌な子……」
 溜め息混じりにそう呟いてみても、どす黒い感情はいったん収まってくれるだけで、決して消えてくれはしない。いつでも心の底の方で澱みたいに溜まっていて、今か今かと溢れ出す機会を窺っている。本当、こんな自分が嫌になってくる。
 どうやったら消えてくれるんだろう――しばらく考えてみても結論が出なくて、わたしはまた溜め息をついた。今度は顔の下半分をお湯に浸けていたから、吐いた息が泡になってぶくぶくぶく……とどこか間抜けな音を立てた。
 お風呂場から出ようとしたとき、大きな化粧鏡が視界の隅に入った。正確には、わたしをじっと見つめている鏡の中の“わたし”が。
 何となく立ち止まって、髪を纏めていたタオルを外してみる。長い髪がはらはらと落ちて顔にかかる。まるで貞子みたい。髪を払い除けると、見慣れた自分の姿が、無表情な相貌が目に入る。
 そのとき突然、鏡の中の“わたし”が星野さんに変わった。彼女の顔には邪気のない笑みが浮かんでいる。昨日見た表情。同時に、あのときの彼女の声が頭の中で再生される。太陽みたいに明るくて、優しい温かみのあるソプラノ。
 フラッシュバック。その言葉が頭の中に浮かんだ瞬間、鏡の中の彼女は煙みたいにふっと消えてしまった。代わりに現れたのは、いつものポーカーフェイス。鏡の中のわたしはさっきと同じ、いつも通りのわたし。その表情には温かさの欠片もなく、ただただ冷たさが宿るのみ。
 ――やっぱりわたしじゃ無理。
 心の中でそう呟くと、胸がチクリと痛んだ。同時に、胸の中で真っ黒なものがどんどん広がっていく。今にも噴き出しそうになっているそれを、いつものように溜め息をついて抑え込む。そのとき、胸の痛みがほんの少しだけ増したような気がした。
 ほら、やっぱり半生だ。
 どこまでいっても中途半端、救いようのないほどの煮え切らなさ。


 部屋に戻ると、携帯電話にメールが一件着信していた。部長からのメールで、今週末の予定を尋ねるものだった。わたしは『特にありません』とだけ返信すると、携帯電話を放り出してそのままベッドの上に倒れ込んだ。
 そのとき渚のプレゼントのことをふと思い出して、枕元においていた学生鞄から五〇〇ミリリットルの紙パックサイズくらいの小箱を取り出した。中には渚の言っていたとおり、小振りのアップルパイが一つ入っていた。網目模様も形もきれいで、ちょっとした工芸品みたい。
 寝ころんだままで一口囓ってみる。その瞬間、リンゴの酸味と蜂蜜の甘みが口の中に広がった。同時にシナモンのほのかな香り。甘さ控えめなのか、それほど甘くはなかったけれど、その分あっさりしていて、お店に置いても問題ないくらい美味しかった。単にわたしの好みの問題だけど。あ、もしかすると渚は、わたしがそれほど甘い物好きじゃないことを知っていたから、わざわざこうしてくれたのかもしれない。だとしたらちょっと嬉しい。
 パイ自体はすっかり冷え切っていたけれど、わたしは口の中で微かに温かさを感じたような気がした。たぶんこれが、手作り特有の温かみってやつなんだと思う。
 ……おふくろの味? いやいやいや。


         3

 土曜日の午後一時、わたしは部長に呼び出されて駅前のスターバックスにやって来た。週末というだけあって人はそこそこいたけれど、入店するとすぐに部長のいる場所が分かった。紺色のカジュアル・スーツにジーンズという出で立ち。中途半端にフォーマルな服装だから、どこからどう見ても就活中の大学生かサラリーマンにしか見えない。
 ま、そんなわたしもあまり人のことは言えないんだけど。上半身は黒のタートルネックの上にダークグレーのダッフルコート、下半身は黒を基調としたチェック柄のプリーツスカートに囚人服模様のサイハイソックスだから、遠くから見たらほとんどまっくろくろすけ状態だろう。
 注文していたカフェ・モカのホットを持って、わたしは部長の向かい側の席に腰を下ろした。珍しいことに、テーブルの上には資料の類が全く置かれていない。空のカップが一つだけだ。
「休日出勤ご苦労」
「部長こそ色々とご苦労様です」ぺこり、と。
「それで今日の予定だが」ポケットから手帳を取り出して、「とりあえずこの前彼らが通ったコースをもう一度辿ってみようと思っている」
「何か意味があるんですか?」普段は部長一人で全部やってるのに。
「一種の現場検証だよ。目と頭は多いに越したことはないからな」
「お二人に遭遇する可能性は?」犯人は現場に戻ってくるって言うし。今回の場合はちょっと違うけど。
「それなら大丈夫だ。あいつは今日、予備校で缶詰になっているだろうから」
 部長も受験生じゃないですか、とは言わないでおく。これはわたしが無理矢理押し通したことだから。写真で脅したからとはいえ、それに付き合ってくれる部長も部長だけど。
「他に何か質問は?」
「いえ、特には」
「ならばさっさとそれを飲み干したまえ。時間は有限だからな」
「生憎それは無理ですね。もう少し時間を下さい」
 理由は至極単純で、わたしが極度の猫舌だから。それでも頑張ってカフェ・モカに口を付けてみる――熱っ。反射的にカップを離してしまう。今ので舌を火傷してしまったらしく、先の辺りがひりひりしてきた。この調子だと、捜査開始への道のりはちょっと遠そう。
 けれど、この事態をほんの少しだけ喜んでいる自分がいる。でも今日のこれはあくまでも仕事。デートなんかじゃない。時間を稼ごうとする自分を徹底的に無視して、念入りにふーふーしてから、湯気をたっぷりと放出させている液面にまた唇を近づけた。あ、今度は大丈夫そ
 熱っ……!


 わたし達の住んでいる市は結構な田舎なはずなのに、駅前だけはやたらと整備が行き渡っている。まずは二階から四階にかけて専門店街のある大きな駅舎と、それに連なっている百貨店のビル。そこから一歩外に出てみると、やっぱり分不相応に大きなバスターミナルとロータリーがある。もう少し行くと南口側には結構な広さの公園が、北口側には予備校や駅前商店街があって、どちらもそこそこの賑わいを見せている。
 けれど立派なのは駅前を中心とするごく一部だけで、そこを抜けるともれなく田園地帯が広がっているという有様。こういうのを地方都市の歪みというのだろうか。
 そんなところを、ひりひりする舌を口の中で転がしながら、わたしは部長と一緒に現場を回っていった。もちろん、星野さん・森宮くん一行が行ったのと同じ順番で。
 まずはブック・ファースト前から百貨店の中へ。
 百貨店の地下は例のごとく食品売り場になっているんだけど、時期が時期だけに予想通りバレンタイン・フェアが開催されていた。本来この地域の名産品が置かれているスペースに、世界中から取り寄せられたチョコレートが所狭しと陳列されている。なぜか試食コーナーも設けられているからフロアには甘い香りが充満していて、それがその場にいる女の人たちの放つ熱気と混じって、妙な威圧感を持った空気になっていた。
 横目でちらりと部長を見てみると、案の定眉間にしわを寄せて渋い顔をしていた。よっぽどチョコレートが嫌いらしい。
「チョコレート、そんなにお嫌いですか?」
「いや、チョコレート自体はそうでもないんだが、あのもったりとした独特の甘さがダメだ」
 もったり?
「そんなにもったりしてますか?」
「ああ。なんというか、脂肪分と甘さの組み合わせがダメなのだよ。口に入れた瞬間気持ち悪くなってくる」
 それじゃ洋菓子全般ダメじゃん。この調子でいくとクリーム系も無理そうだし。星野さん、苦労してそうだなぁ……。『嫌いな物を子供に食べさせようとする母親』という喩えは、案外的を射ていたのかもしれない。
「ああ、そういえば」何か思い出したかのように、部長は唐突に手を打ち合わせた。「カカオ99%とかいうヤツはなかなかうまかった覚えがある」
「部長、あなたは化け物ですか」思わず口に出してしまった。あんな苦いものを美味しいと言えるなんて……。わたしは普通の味覚の持ち主だから、せいぜい75%が限界です。
「俺からすれば、よくあんなものを普通に食えるなと言いたいな。まあ、この上なくどうでもいいことだがね」
「それもそうですね」
 感覚なんて人それぞれですし。みんなちがって、みんないい――そんな詩がふと頭の中を過ぎる。
 とりあえずフロア全体を見回してみる。いるのは女の人ばかりで男の人の姿はほとんど見かけない。そのほぼ全員が目的がチョコレートの品定めだろう。なら、星野さん達が何をやっていたのかは想像に難くない。けれども一応事実を確かめておく必要がある。
「部長、星野さん達はここで何か買っていましたか?」
「いや、何も買っていない」
 予想通りの答え。そんなこと、現場を見なくてもすぐに分かる。お礼を言った後で、部長に気づかれない程度に小さく溜め息をついた。憂鬱混じりの吐息。
 ふぅ、バカらし。


 同じような調子で、わたし達は他の場所も回っていった。百貨店のスーツ売り場、駅前商店街にあるケーキ屋、八百屋、肉屋、文房具店などなどなど。途中で口をもごもごしているわたしを見かねたのか、部長がコンビニでペットボトルのミネラルウォーターを買ってくれたこと以外は、特に収穫らしいものはなかった。
 そして最後に来たのが、星野さんの自宅。
 星野邸は山を切り開いて出来た住宅地の中にある、ごくごく普通の建て売り住宅だった。周囲には同じような外観の家が建てられていて、鏡の迷宮にいるような錯覚を憶えそうになる。時々子供や母親らしき女の人が通りかかる以外、人通りがほとんどないせいかもしれない。そのおかげで人の目をそれほど気にしなくてもいいわけだけど。
「特に収穫はなかったな。さて、どうするか……」
 頭をガリガリと掻きながら、部長はさも不満そうにそう漏らす。
 周囲を見渡してみたけれど、同じような景色が見えるだけで特に変わったことはない。
 けれど頭の中で何かが引っかかっていた。喉に魚の小骨が刺さっているような感覚。それを信じて、もう一度見回してみる。手がかりがあるとすれば、ここ以外に考えられないから。
 違和感の正体に気づいたのは三回目のことだった。星野邸よりも二つ奥の家――その家の門の横に表札がかかっていないのだ。その前まで行ってみると、死角になっていた門が見えた。そこには『売り家』と大きく書かれたプレートがかけられている。その下には不動産屋の住所と電話番号が小さく添えられている。わたしはそれらを手早く手帳に書き込んだ。ほとんど無意識の動作だった。
「どうしたのかね、夏木君?」
「いえ、何でもありません」
 咄嗟に手帳をポケットに隠して、半ば反射的にそんな嘘を口にしてしまった。それと同じくらい真っ赤な夕日を背にして部長が言う。
「そろそろ撤収しないかね? 夏木君もあまり遅くなるとまずいだろう?」
「そうですね」
「ではさっさと行くぞ」そう言うと部長は回れ右をして、一足先に元来た道を戻っていく。わたしは置いていかれないように急いでそれに続いた。ほんの少しの罪悪感に襲われながら。それを悟られないようにハリボテみたいな無表情で覆い隠しながら。


 駅前で部長と別れた後、わたしは家に帰らずに商店街のあるところへ向かった。『柳沢不動産』――さっきメモした住所にある不動産屋。
 何となく気まずい気分になりながら、物件紹介の紙がたくさん貼ってある自動ドアをくぐる。店内はイメージとは違って、小綺麗なオフィスみたいだった。
 すぐそこにいたスーツ姿の若い男の人が、「いらっしゃいませ」と応対してくれる。けれど彼の表情には疑念の色が濃い。無理もない。中学生くらいにしか見えない女の子がこんなところに来たら、誰でもそうなるだろう。
 時間を取らせるのも何だか悪い気がしたので、わたしは早速用件を切り出した。質問内容はもちろん、あの物件の前の持ち主は誰かということ。
 彼はプライバシーがどうとか言って渋っていたけれど、わたしもここまで来て退くわけにはいかないから、適当な理由をでっち上げて何とか食い下がった。すると相手も何とか観念、もとい納得してくれたようで、元住人の名前と現住所をこっそり教えてくれた。
 前に住んでいた人の名前は、七瀬恭也。森宮ではなかった。
 一瞬、目の前が真っ暗になったような気がした。
 お礼を言って店を出てから、諦めきれずに記憶の糸を手繰ってみる。そこでふと、部長が持ってきてくれた資料の中に家系図があったことを思い出した。けれど同時に愕然とした。必要ないと思って、今回の資料は全部もらっていなかったから。
 家に帰ってから机の引出の中を漁ってみると、ずっと前にもらっていた資料が出てきた。その中には例の家系図もある。無駄に律儀な昔の自分に感謝した。
 はやる気持ちを抑えてそれを見る。大当たり。七瀬恭也の奥さんの旧姓は森宮だった。
 材料は揃った。でも結論を出すにはまだ早い。もう少し情報を集める必要がありそうだった。
 そこまで考えたとき、思わず苦笑が漏れた。これじゃあまるで偏執狂だ。結論に関係ない細かい部分は必要ないと思っていたのに、今やそれを必死になって追い求めている始末。何だかんだで一緒にいた二年の間に、新聞部とバカ部長の持つ空気に染められていたらしい。
 あるいは、単に自分の気持ちから目を背けたいだけかもしれない。少なくともこうやって作業している間は、自分のココロと向き合わなくて済むから――楽になれるから。
 どっちにしても滑稽だった。乾いた笑いが口から漏れる。もう結論は確定しているも同然なのにこんなことをしている自分が、どうしようもなくバカらしくて。

         *

 それでもやるべきことに変わりはない。
 翌日、わたしは予定通り一人で星野家のある住宅地に赴いた。昨日と同じで人通りはかなり少ない。といっても、見上げてみればベランダで布団を干している家もあるし、家の中から微かに掃除機をかける音も聞こえるんだけど。
 とりあえずわたしは、旧七瀬家について星野家を除く近所の人々に聞き込みを開始した。それによると、引っ越しをしたのは六年ほど前で、原因は夫婦の不仲――つまりは離婚が原因らしい。七瀬家については結局、それ以上のことは分からなかった。別に調べるべきことでもなかったし、調べる気にもならないけど。
 しかし同年代の子供がいる家庭もあるせいか、子供達のことについてはよく憶えてくれていた。夫婦については色々なことを言っていたけれど、七瀬さん家の淳君に関しては元気で面倒見もいい子だったということで全員一致。あとついでかどうかは分からないけれど、資料に載っていなかったことまで色々と教えてくれた。星野さんと森宮くんの関係についても、その中に含まれている。昨日のこともあるので、わたしはそれらを逐一手帳に書き込んでいった。
 最後、念のために森宮君の写真を見せてみると、全員七瀬さんの息子さんだとすぐに分かってくれた。大当たり。七瀬さん家の淳君は森宮君と同じ人物だった。
 わたしはそれぞれの人にお礼を言うと、すぐさま住宅地を後にした。用のないところにずっといるのは、正直あまり好きじゃない。例外は本屋と古本屋の二つだけ。本当に何となくだけど、心が落ち着くような気がするから。
 坂道を下る途中、腕時計を見てみた。午後三時十二分。家に帰るにはまだ早い時間帯。
 ふぅ……さて、これからどうしようかな。


 色々と考えた末、結局古本屋に行くことにした。読もうと思っている本は特にないけど、暇潰しくらいにはなるだろうから。今からわざわざ歩くのも面倒だし、二キロほど先のブック・オフじゃなくて、駅前商店街にある小さな古本屋にしよう。久しぶりだから本が少し入れ替わってるかもしれないし。
 そう思ったのがまずかったのかもしれない。
 何とはなしに扉をくぐった瞬間、わたしは鼻からまともに壁にぶち当たった。ただしガンッという硬い感触ではなく、ふにっとどこか柔らかい感触。それに、ちょっと暖かい。
「す、すみません……」
 謝罪しつつ顔を上げると、今二番目に遭いたくない人物がきょとんとした顔で立っていた。大人っぽいのにどこか子供っぽさの面影の残る顔立ち――星野さんである。今日は制服じゃなくて、上は重ね着したブラウスに真っ白なダウンジャケット、下はジーンズという少々ラフなお姿。体型がすらりとしているのも相俟って、なんだかすごく女子大生っぽい。
 ぶつかったのがわたしだと気づいた途端、星野さんはパッと向日葵みたいな笑顔を咲かせて「セナちゃんだー」とわたしに思い切り抱きついてきた。腕と胸で頭部をがっちりロックされる。むぎゅっ、苦しい。続けてほっぺたすりすり攻撃。典型的なマスコットキャラの扱い。
「ほ、星野さん、苦しいです……」
 ギブアップを告げるプロレスラーよろしく顔に回された腕をぱんぱん叩くと、すぐに星野さんは慌てて謝ってわたしを解放してくれた。死ぬかと思った。
「ごめんね、つい」と言う星野さんの顔は、けれどどこか物足りなさげ。殺す気ですか。
「いえ、大丈夫です」それでも十回以上抱きつかれれば、さすがに慣れるというものだ。「それで今日はどうしたんです? お買い物ですか?」
「うん、ちょっとね」
 星野さんはそう言って、肩に提げていたトートバッグを示した。中には茶色い紙袋が入っている。分厚さはおおよそ週刊誌二冊分くらい。
「何を買ったんです?」
「ふっふっふっ、セナちゃんはなんだと思う?」
「もしかして、お菓子作りの本ですか?」
「ピンポーン。大当ったり~」
 そして星野さんは「じゃーん!」とトートバッグから袋を取り出して、購入した本を見せてくれた。一般的な料理本が二冊。ただし一冊は洋菓子関係で、もう一冊は和菓子関係。
「ずいぶん悩んでるみたいですね」思わずそんな感想が漏れた。
「うん。何をあげるか、まだ決まってないんだ」ちょっと苦笑を漏らしてから、「でも結構楽しいよ? きみまろはどうやったら喜んでくれるかなぁって考えてると」
 そう言って二冊の古本を大事そうに胸に抱える星野さん。浮かんでいる表情は、優しい温かみのある笑顔。胸の中に、針で刺されたような痛みが生まれる。
「あ、そうだ。セナちゃん、今から何か予定ある?」
「いえ、特にありませんが」
「じゃあさ、プレゼント選びにちょっと付き合ってくれないかな?」
 プレゼント? えっと、それはつまり――
「部長の、ですよね?」
 星野さんは「うん」と元気よく頷いて、
「きみまろの一番近くにいるセナちゃんがいれば、きっと阿修羅さんも凌駕できるよ」
 一番近くにいる――すぅ、と心が冷たくなるのが分かった。顔に出ないように押し殺す。
「それを言うなら『文殊の知恵』ですね、たぶん」
「そうとも言うね、うん」そう言う星野さんの頬はちょっと赤い。
「そうとしか言いませんよ」大丈夫ですか、受験生。
 そんなことを言っているうち、何だか毒気を抜かれてしまった。それが星野さんの不思議なところ。ときどき無神経なところがあるけど、なぜか憎めないのだ。まるで悪戯を楽しんでいる子供みたいに。こういうのを『天然』というのかもしれない。
「それで、付き合ってくれるの?」ずずいっと顔を寄せて星野さんが再度尋ねる。その表情は真剣そのもの。あまりにも顔が近いから、ちょっと気圧されてしまう。
「えっと、わたしなんかでよろしければ、別にいいですよ」
 わたしは結局、星野さんの申し出をOKしてしまった。半生だなぁ、と思いつつ溜め息をつく。けれど喜んでいる星野さんの顔を見ていると、なぜか心が温まるような気がした。同時に胸に微かな痛み。どす黒い感情がぬるりと蠢く。
 これでいいの、とココロが問いかける。
 これでいい、とわたしは答えて、しばらく他愛もない話をした後、星野さんと一緒に買い物に繰り出した。胸がほんの少し痛むけれど、タールみたいな感情がちょっとだけ暴れるけれど、全く問題ない。感情を抑え込むのは元々得意分野だ。半熟卵も固茹で卵も、見た目はほとんど変わらないように。
 それから二時間ほどかけてあちこち歩き回ったけれど、結局プレゼントが決まることはなかった。幸か不幸か、今回の事件の顛末が分かってしまったけれど。


 何時間も歩き回ったのは久しぶりだったから、自分の部屋に入った途端、持っていたショルダーバッグを放り出してベッドの上に倒れ込んでしまった。なんという運動不足。
 寝返りを打つと、鞄の中身が散乱しているのが目に入った。口を閉め忘れていたらしい。立ち上がるのも面倒だったので、ベッドに寝転がったまま手を伸ばして、筆箱やら資料の入ったクリアファイルやらを一ヶ所に集めていく。
 しばらくして指先が手帳に触れた。手を必死に伸ばして、それを取ってみる。ページを捲っていくと、今日手に入れた情報の部分に行き着いた。たった数ページに記載された、けれどとても大切な情報。
 仰向けになってその部分を蛍光灯に翳すと、ぼんやりと裏側にある文字が透けて見えた。その向こう側にある蛍光灯の形も、本当にうっすらと。一日を費やして集めた割には、何だかちょっと呆気ない。でも自分で手に入れたものだと思うと、何だか特別なものに思えてくる。
 そうやって何となくパラパラとページを弄んでいると、こんなことがふと頭の中をよぎった。
 これさえなければ、真実は分からないんじゃないか……?
 ありえない――いや、果たしてそうだろうか?
 これで部長と星野さんの間にひびが入れば、わたしの入り込む隙間がほんの少しでも生まれるかもしれない。部長は大学生になるけれど、あの調子なら時々顔を出してくれるかもしれない。進学するのは地元の大学なんだから。
『かもしれない』、『もしかすると』ばかりだ。
 でもありえないことではない。わたしさえ口にしなければ。
 頭の中で篠崎先輩の声が響く――「チャンスだとは思わないんだ?」。
 手に汗が滲む。どす黒いものが、胸の中でぬるりと蠢く。ココロが邪な計算結果を吐き出していく。タールみたいな感情とともに、次々と。
 けれど――
 部長のどこか含みのある笑み、星野さんの無垢な子供っぽい笑顔、部長の憂鬱そうな顔、星野さんの泣き顔――次々と脳裏に浮かんでは、泡のようにすぐに消えていく。
 罪悪感が生まれる、良心が痛む――けれどそれ以上にココロが痛む。胸の痛みはいつのまにか、ズキズキと湿ったものに変わっていた。苦しくて息が出来ないほどの鈍痛。もう溜め息なんかでは抑えられそうにない。
 手が情報を書き込んだページに伸びていき、それらを一気に掴んだ。指が血の気を失って白くなるほど思い切り強く。
 アタマが囁く――これでいいの?
 違う、こんなんじゃダメだ――そう頭の中で繰り返す。まるで何かの呪文みたいに。そうでもしないと、ココロにまかせて手を動かしてしまいそうだった。胸が痛い。心が軋む。唇が震える。視界が滲む。生温い感触が頬を伝っていく。それでも握った手を動かさなかった。でもそれで精一杯だった。握った指から全く力が抜けない。
 そのとき、星野さんの映像がフラッシュバックした。
 ブック・ファーストで見た、すごく嬉しそうな表情の星野さん。
 今日古本屋で見た、暖かい笑みを浮かべた星野さん。
 一つの共通点――部長を喜ばせたい。
 たった一つの純粋な想い。それを生み出している純粋な好意。スタートラインに立つことすら挫折させた、星野さんの真っ直ぐさ。これが部長に向いている限り、わたしは絶対に勝てない。わたしと部長と星野さんの位置関係は絶対に変わらない。
 けれど、それを逆転できるかもしれない。目の前のこれさえなければ、あるいは……。
 心が今までにないほど冴えわたる。

 アタマが囁きかける――本当にこれでいいの?
 ココロが囁きかける――本当にこれでいいの?

 これでいい。
 これで、いい。

 わたしは腕を後ろに引いて、持っていたページを全部、根こそぎ引き千切った。


         4

 次の日の気分はまさに『最悪』の一語に尽きた。心の中は罪悪感と自己嫌悪でいっぱいで、今にも心の軋む音が聞こえてきそうなくらい。それなのに胸の痛みは全然治まってくれないから、もうどうしようもない。
 それでもわたしには、これでよかったんだと思う以外に道はなかった。そうでもしないと、胸の中の感情に押し潰されてしまいそうだった。
 これでいい、これでいいんだ――バカの一つ覚えみたいに頭の中で呟き続けた。昨日とちょうど真逆の構図。どっちにしろ半生だ。やる前はやらなかったことを、やった後はやったことを後悔している。
 けれどそんなわたしのことなんかいざ知らず、今日という一日は始まっていく。わたしは感情を全てひた隠しにして、いつものように家を出た。
 いつも通り見上げた空は、気持ち悪いくらい青かった。

 朝の教室で机に突っ伏していると、しばらくして背中を軽く叩かれた。ほぼ同時に「おっす、瀬奈」という元気な涼子の声が響く。
「おはよう……」
 起き上がって返事をすると、涼子は人懐っこい相貌に浮かぶ笑みを少し曇らせた。
「瀬奈、お前大丈夫か?」
「どうして?」
「どうしてって、顔色すっごく悪いぞ?」
 一瞬ぎくりとしたけど、まだ大丈夫。たぶん顔には出ていないはず。適当に誤魔化そう。
「大丈夫。今日、生理の日だから」
「ああ、そっか。なるほどな」と涼子はすっぱり笑い飛ばしてくれた。ちょっと気が紛れてくれるくらい爽やかな笑顔で。そのおかげか、ほんの少しだけ頬が緩む。
「ごめん、心配かけて」
「いや、こっちこそ悪かった」
 しばらくして登校してきた渚が「おはよー」と声をかけてきた。なのでわたしは早速、調査の結果を報告した。一緒にいた相手は『星野加奈』という一つ上の先輩で、森宮君のお隣さんだった人で、仲のいい幼馴染みだったことを、台本を読むみたいに淡々と。そんな風にしないと声が震えてしまいそうだった。案の定、渚の表情に翳りが差す。胸に針で刺したような痛みが走る。罪悪感が鎌首をもたげる。わたしはそれらを必死に押し殺した。
「嫌な子……」
 話が一通り終わって別れた後、机に突っ伏したまま、誰にも聞こえないように小さくそっと呟いた。自分のことばっかり考えて、ホント嫌な子だ。
 罪悪感と後悔と自己嫌悪が、心を軋ませながらぐるぐると渦を巻く。その奥底で、これでいいんだとほくそ笑んでいる自分がいる。それはきっと、昨日まではどす黒いタールの中にいた自分自身。罪悪感がまた膨らむ。
 これでいい、これでいいんだ。
 始業のチャイムが鳴る。生徒が着席する。先生が入室する。授業が始まる。
 これでいい、これでいいんだ――先生が区分求積法について話している間、ずっと心の中でそう呟き続けた。何も変わらないことは分かっていたけど、そうでもしないとどうにかなってしまいそうだったから。
 この先数日間、部長と星野さんが入試でこの町にいないのが、せめてもの救いだった。

         *

 けれど三日後に限界が来た。伸びきったゴムが切れるときみたいに、突然、呆気なく。
 昼食を摂った後、涼子とトイレに行ったときのことだ。下を向いた刹那、猛烈な吐き気が襲ってきた。胃が身体の中でのたうち回っているような感覚。まずい、と思った次の瞬間には、洋式便器の中に思い切り吐いていた。嫌な汗が噴き出して頬を伝う。髪が肌に貼り付く。息が、心拍数が急速に上がっていく。まるで一〇〇メートル走で全力疾走したときみたいに。
 息を整える間もなくまた吐いた。胃が痙攣していた。三度目は充満していた臭いで吐いた。もう胃の中には何も残っていないらしく、いくらえずいても胃液しか出てこなかった。視界が歪む。汗とは別のものが頬を伝っていく。それでも嘔吐は止まらなかった。
 しばらくして吐き気がようやく治まってくれた。口の中全部が気持ち悪いくらい酸っぱくてむせた。喉が火傷したみたいにジンジン痛んだ。
 汗が便器の中の水に滴り落ちて、水面に波紋を立てた。段々広がっていくそれを見ていると吐き気がぶり返してきて、すぐに水を流した。
 ひゅうひゅうという音がどこからか聞こえていた。薄気味悪いその音が自分の呼吸音だと気づくのに、たっぷり五秒はかかった。
「おい、本当に大丈夫か?」
 個室から出て口の中を濯いでいると、涼子が心配そうに声をかけてきてくれた。他に誰もいないのが幸いだった。
「うん、大丈夫」
「ンなわけあるか」涼子は声を荒くして言った。「瀬奈、お前ここンとこずーっとそんな調子だけどよ、なんか悩みでもあンのか?」
 ぎくりとして一瞬固まってしまう。「違うよ、これはただの」
「お前がそんなンなってるとこ、見たことないぞ?」
「今月はたまたま」
「違うね」涼子はきっぱりと断言した。「お前、なんか隠してンだろ?」
 気迫に圧されて言葉に詰まる。返すべき言葉が、いくら探しても見つからない。
 もう誤魔化しは利かない。けれど、本当のことを言うわけにもいかない。
 視界が再び滲む。残っているのはもう、自分でもよく分からない意地だけだった。
「違う」
「違わねえ」
「違う……!」
「違わねえ」
「違うったら違う!」自分でも驚いてしまうほどの大声が出た。しまったと思ったときにはもう遅く、涼子は呆れ顔で溜め息をついていた。
「まあ、言いたくないンなら別にいいけどさ」
「違う……っ」絞り出した声はどうしようもないほど震えていた。もう説得力の欠片もない。
「お前があんな大きな声を出したのが何よりの証拠だよ、バカ」苦笑混じりにそう言うと、涼子は何かを投げてよこした。水に流せるポケットティッシュ。「とりあえず鼻水拭けよ。あーあ、可愛い顔がぐっちゃぐちゃだよったく」
「――涼子にだけはバカって言われたくない……」
 言われたとおり鼻水を拭きながらそう反論すると、涼子はどこかの御前みたいに豪快に笑い始めた。よほど可笑しかったのか、目尻に涙まで浮いている。
「まあ、そうだわな」そして、わたしの首に腕を回してこう言った。「でもさ、もし一人で抱えきれなくなったら、あたしにも相談してくれよな。ちょっとだけかもしれないけど、もしかしたら力になれるかもしれないからさ」
 不覚にも胸がじんと熱くなってしまった。目尻に溜まった涙が溢れそうになる。けれども普段のわたしならきっと、淡々とした調子でこう言うだろう。
「余計なお世話……」
「悩んでるお前を眺めてるよりかはずっとマシだよ」
 涼子らしくないその言葉に、思わずプッと吹き出してしまった。
「くさい台詞……百合の気でもあるんじゃない……?」
「ねぇよ。まあ、それくらい生意気言えるンなら、もう大丈夫そうだな」
 涼子は笑いながらそう言って、わたしの背中を一発思い切り叩いた。
 廊下に出てしばらくしてから、わたしは小さな声でぽつりと、何だか恥ずかしくて言い忘れていたことを呟いた。
「ありがと……」
 聞こえないようにボリュームを絞ったつもりだったけど、涼子にはしっかり聞こえていたみたい。ふん、と鼻で笑って、
「素直じゃねぇな、お前は。別にいいよ、友達なんだからさ」
 たったそれだけの言葉なのに心にすっと染み込んでいって、何だかじんわりと温かい。
 やっぱりこれじゃダメだ。綺麗事かもしれないけど、潔癖性かもしれないけど、やっぱりこれじゃダメだ。何の解決にもならない。部長と星野さんに正直に謝ろう――涼子の男の子っぽいな笑顔を眺めながら、わたしはそう決心した。胸がまた痛むかもしれないし、悲しくなるかもしれない。だけど、全然冴えていないけど、これがわたしなりの精一杯のやり方だから。
 だからわたしはもう一度言った。今度ははっきりと、絶対聞こえるくらい大きな声で。
「ありがと、涼子」
「そう何度も言うなよ。照れるじゃねぇか」
 はにかんで頬を掻く涼子に、もう一度「ありがとう」と言ってやった。ちょっとした仕返しのつもりで。あいにく涼子は満更でもない様子だったけど、こういうのも悪くない。
 なぜかは分からないけれど、そのとき、胸の中にあったどす黒い感情がほんの少しだけ消えたような気がした。


 帰宅するとすぐさま部屋に入って、ゴミ箱の中身を全部ひっくり返した。フローリングの床に、学校のプリントや計算用紙、包装フィルムが盛大に散らばる。目を皿のようにして、その中に手帳のページがないかを探る。あった。くしゃくしゃに丸められた事実の欠片。広げてみると、少し滲んだ文字が浮かんでいた。涙と汗の名残。でも字は何とか読める。油性のボールペンで書いておいてよかった。しわくちゃになったそれを破ってしまわないように慎重に伸ばしていく。
 わたしはそれを持って、デスクの上のノートPCを起動させた。資料を提出するには、まず体裁を整えなければいけない。
 部長達が帰ってくるまであと二日。色々差し引いても、仕上げるには充分間に合う。となれば善は急げだ。わたしはすぐさま作業に取りかかった。

         *

 カーテンの隙間から差し込む朝陽で目が覚めた。口元の涎を拭ってから顔を上げると、首がぎしぎしと悲鳴を上げた。目の前には付けっぱなしのノートPC。置き時計には二月十日、六時四十五分というデジタル表示。昨日は結局、作業の途中でそのままデスクで寝てしまったらしい。
 ノートPCを終了させて伸びをすると、背骨がバキバキと盛大な音を立てた。ついでに大きな欠伸も出た。典型的な寝不足。でも気分は悪くない。
 カーテンを開けてみる。窓から見上げた空は、清々しいくらいの快晴だった。


 教室の中に入ると、今日は珍しく涼子が先に来ていた。わたしの姿を確認すると、「おーっす」と手を挙げて挨拶してくれた。
「調子はどうよ?」
「全然大丈夫。ちょっと寝不足だけどね」
「あんま無理すンなよ。あたしでよければ、いつでも頼ってくれていいからな」と言ってポンと軽くわたしの肩を叩く、
「うん、ありがと」これ以上頼もしいものはない。
「いいよ、礼なんて別に」と涼子は照れ臭そうに笑う。
 ううん、いくらお礼を言っても足りないくらい、涼子には感謝してる――そんなことが言えるはずもなく、わたしは笑って誤魔化すことにした。もし口にしていたら、涼子は爆笑していたに違いないから。なにも朝っぱらから、友達を筋肉痛にする必要はないだろう。
 しばらくして渚が登校してきた。いつもと変わらない風に振る舞っているけれど、その表情には憂鬱の色がほんの少し滲んでいる。星野さんのことが気になっているのだ。渚には、ちょっと思いこみの激しいところがあるから。
 わたしのせいだ。何とかしなきゃ。けれどもいい方法が思いつかない。あのページの情報には、そんなことは一切載っていないから。
 結局のところ、わたしは涼子と一緒に他愛もない話に興じるしかなかった。たとえそれが気休めにならないとしても、ないよりはマシなはず――そう自分を誤魔化しながら。


 携帯電話からエクソシストのテーマが流れ出したのは、その日の放課後、部室に入ろうとしたときだった。星野さんからの着信メールで、本文には『今日、予定とか大丈夫?』と猫の絵文字付きで書かれていた。どうやらもうこっちに着いたらしい。わざわざ京都まで受験に行ってきたんだから、もっとゆっくりしてくればいいのに。
 わたしが『大丈夫です』と返信すると、すぐにメールが返ってきた。
『なら、ちょっと付き合ってくれないかな? バレンタインに渡すもの、まだ決まってなくて』
 文末に添えられた泣き顔の絵文字が、星野さんの心の内を端的に表しているような気がした。
『いいですよ。では、待ち合わせは五時に、駅前のブック・ファーストでよろしいですか?』
『うん大丈夫! ありがとう!』
 笑顔の絵文字が何となく星野さんに見えて、ほんの少しだけ頬が緩んでしまう。もしかすると、これも星野さんの力なのかもしれない。
 やっぱり星野さんには敵わない――そう思うと、胸が微かにチクリと痛んだ。


 待ち合わせ時間の五分前にブック・ファーストに着くと、もう既に星野さんが改札口の前で待っていてくれた。今日の服装はライトグレーのPコートに黒いブーツカットジーンズと、いつもより暗めの配色。わたしが言うのもアレだけど、何だか喪服みたい。
 壁にもたれかかっていた星野さんはわたしを見つけるなり、顔にパッと笑みを咲かせて、子供みたいに手をぶんぶんと思い切り振ってくれた。けれども渚のこともあったから、気まずくてつい視線を逸らしてしまう。
「こんばんは、入試お疲れ様でした」
「うん、ありがとっ」そしてなぜかわたしの頭をなでなで。
「試験はどうでした?」
 恐る恐る訊いてみたけれど、表情が曇らなかったから出来は良かったらしい。わたしの頭から手を離すと、びしっと力強くVサインして、
「ばっちり! なんてったってマークシート方式だったからね!」
 ちょっと不安。本命の試験も近いのに、このお方は本当に大丈夫なのだろうか。
「……そうですか。よかったです」
「それよりもさ、早く行こ? 実は今日予備校だから、あんまり時間ないんだ」
「予備校って……星野さん、今はそっちの方が大事なんじゃないですか?」
「ううん、どっちが大事じゃないの」眩しい笑顔を浮かべながら、星野さんは首を横に振った。「私はきみまろが好き――ううん、大好き。だから他の何とも同列に出来ないの」
 その言葉にわたしは、ただただ素直に驚いていた。こんなにも真っ直ぐに他人への好意を表現できる人がいたことに。不思議なことに、羨望も嫉妬も全く感じないで。
 よっぽどヘンな顔していたらしく、星野さんは首を傾げて「セナちゃん、どうしたの?」と尋ねてきた。
「いえ、何でもありません」
「えっでも……」
 そう言うと星野さんは唐突に、その白くて細い指でわたしの頬に触れた。あまりに突然だったから思わず飛び退いてしまう。離れた指の先には、大粒の雫が乗せられていた。涙だ。
「セナちゃん、泣いてるよ?」
 完全な不意打ちだった。顔が熱くなった。目元を袖でごしごしと拭って、星野さんから顔を逸らしてしまう。たぶん今、耳まで真っ赤になっていると思う。
「何でもありません」
 すると、プッと吹き出す星野さんの声が聞こえた。
「かわいいね、セナちゃんは」
「え……?」
「だから、セナちゃんはかわいいなーって」
 そして頬の両側をがしっと掴まれて、星野さんの方を向かされた。むぎゅっ。目と鼻の先には、星野さんの天真爛漫な笑顔。
「だからさ、元気出せ! どんなことがあったか知らないけど、でもセナちゃんなら絶対大丈夫だから!」
 ちょっとむっとした。たぶん顔には出なかったと思う。
「は……はい」
「よしっ」星野さんはわたしを掴んでいた手を離して、「ならば行こうか、いざ鎌倉ー!」
 遠足の引率の先生みたいにそう言うと、ゆっくりと商店街の方へ歩き始めた。
 そんな星野さんを見て、苦笑混じりの笑いが不意に漏れた。部長の彼女さんなのに、たまに無神経なことを言うのに、わたしが星野さんを嫌えない理由が、何となくだけど分かったような気がしたから。それはたぶん、部長と星野さんの中に同じものが――純真さとも真っ直ぐさとも違う何かがあるから。もし星野さんを嫌いになったら、それは部長を嫌いになるのと同じだから。
 夫婦は似るって言うけれど、なんだかずるいや――そんなことを思いながら、でもどこか清々しい気分で、わたしは星野さんの後に続いた。
 完敗っていう言葉は、たぶんこういうときに使うんだと思う。


 それから一時間ほどかけて色々なところを――今回は隣の市の駅前まで回ったけれど、渡すものは結局決まらなかった。「これかなぁ」と思えるものはあっても、はっきり「これだ!」といえる決定打がないのだ。
 巡り巡って戻ってきた百貨店の地下食品売り場で、わたしと星野さんは特に当て処もなく彷徨っていた。
「うー、どうしようかなー」そう言う星野さんは今にも泣き出しそう。
「どうしましょうか」
 こうなっているのはたぶん、わたし(別にチョコ入れなくてもいいよ派)と星野(絶対チョコ入れたい派)さんの間で若干意見が食い違っているから。だって『チョコレートをあげる』という風習は日本のお菓子会社が勝手に作り出したものなんだから、受け取る側が嫌なら別に守らなくてもいいと思うし。まあ、郷に入れば郷に従えと言われればそれまでだし、星野さんの気持ちも分からなくもないんだけど。でも部長ならたぶん、星野さんの作ったものなら、バロットだろうがホンオフェだろうがなんでも食べそうな気がする。
 適当に星野さんとぶらぶらしていると、チョコレート売り場から離れて普通のお菓子売り場に来てしまった。ポテトチップスやらのど飴やらの見慣れたパッケージが目に入る。
「そういえばポテチにチョコをコーティングしたやつあったよね。あれなんかどうかな?」
「ダメだと思いますよ。部長、脂肪分と甘みの組み合わせがお嫌いらしいですから」
「あーうー、そっかぁ……」とまた項垂れる星野さん。そこまでチョコにこだわらなくてもいいのに。でも星野さんの意志を尊重しなければいけないから難しいところ。
「ここはストレートに、チョコレートケーキとかチョコクッキーとかじゃダメなんですか?」
「チョコケーキは一昨年、チョコクッキーも去年あげちゃったから」
「ならもう一度作ればいいんじゃないですか?」
「うーん」砂を噛んだような顔をして、「同じの作っちゃったら何だか負けな気がする」
「……そうですか」いや、その気持ちは何となく分かりますけど……。
 そんな風に色々考えていたとき、真っ黒なパッケージに浮かぶ金の文字が視界の隅に入ってきた。カカオ99%。お菓子とは思えないほど強烈な苦みを持つ、もといカカオの味を最大限の生かした混じりっ気なしのチョコレート。そういえば部長、これはまだ大丈夫って言ってたっけ。でもこれだけじゃあ、さすがに喜ばないだろう。
 ならどうすればいい? 料理本を買っていたから、星野さんは手作りのものをあげたがっているはず。けれどわたしをまた呼び出したってことは、有意義なアイデアが浮かばなかったということ。買ったものをあげるのは、きっと不本意な最終手段なんだろう。
 ああもう、頭の中がごちゃごちゃしてきた。正直、わたしはあまり頭のキレる方ではない。だからこういう頭しか使わないことはかなり苦手なのだ。
 そのときふと、ぐちゃぐちゃに絡まった糸の中から一つのアイデアが浮かんできた。それもすごく強引な。でもたぶん星野さんなら納得してくれるはず。それに、上手くいけば全部丸く収まってくれる。そう都合良くは行かないだろうけど、やってみる価値は充分ある。
「星野さん、明日、何か予定がありますか?」
「んー、空けようと思えば空けられるよ?」
「なら明日、絶対に予定は入れないでおいて下さいね。詳しくはまた後で連絡します」
「うん、分かったよー」
 予備校に向かう星野さんと別れた後、わたしはこの方法に欠かせない人物に電話をかけた。
 三回ほどのコール音がした後、彼女は少し慌てた様子で出てくれた。少し話をした後で、わたしはさりげなく用件を切り出す。返事は快いOK。ちょっと卑怯な手を使ったけどね。感謝の言葉を述べてまた他愛もない話をした後、わたしは通話を終了した。
 最後に、明日という日と偶然に、わたしは少しだけ感謝した。今日は二月十日。なら明日は当然、二月十一日――平日ではなく建国記念日という祝日。高校生であるわたしと彼女が一日中自由に行動できる日だ。たとえ失敗したとしても、再挑戦する時間は充分にある。
 ちょっとした高揚感と不安を抱きながら、わたしは百貨店の地下に戻って、買い物カゴにカカオ99%を二つ放り込んだ。


         5

 翌日の午後一時半。わたしは星野さんと一緒に、昨日電話したとある人物の自宅前に来ていた。周りをほとんど畑で囲まれている二階建ての洋風建築、というより小さめの洋館と言った方が適切かもしれない。そして門柱にかかっている表札には、『日向』という文字。何と言うことはない、わたしの友達である日向渚の家なのだ。
「わあ、大きい家だねー。なんだかドキドキしちゃう」と目を輝かせる星野さん。
「ですねー」
 適当に流してインターホンをぽちっとな。数秒後、渚本人が出てくれた。名前を言うと「ちょっと待っててー」という答えが帰ってきた。
 すぐにドアが開き、「はーい」と渚が顔を出す。その顔がコンマ数秒だけ固まった後、穏やかな微笑みが貼り付けられる。そりゃそうだろう。渚に『知り合いと一緒だけどいい?』とは言ったけど、その知り合いが星野さんとは言ってないから。憂鬱の直接原因を連れてくるなんて我ながら結構酷いと思うけど、状況が状況なので今はアイコンタクトだけで謝っておく。ごめんね、渚。今度何か奢るから。
「どうぞー」
「失礼しまーす」「お邪魔しまーっす」
 案内されたのはかなり広めのシステムキッチン。適度に広いだけじゃなく、きれいだけど使い込まれているという感じがする。初めて見るような本格的なオーブンもあるし、ちょっとした厨房みたい。
 すぐ近くにあるテーブルの上には、用意してほしいと頼んでおいたものがずらりと並べられている。さすが渚、パティシエ志望なだけある。カルピスバターまであるなんて。
「えっと、自己紹介がまだだったよね」星野さんが言った。「私は星野加奈。形式張るのは苦手だから、てきとーに呼んでほしいなっ」
「えっと、初めまして、瀬奈の友達の日向渚です」
 渚がおどおどしながらそう言った途端、星野さんの笑みの輝きが増した。
「あ~! 日向渚ちゃんか!」ぱちん、と手を打ち合わせて、渚の顔をまじまじと見る。「なるほどなるほど、『ひゅうが』って名字、どっかで聞いたことあるなぁって思ってたんだー」
「は、はぁ……」
「そういえばセナちゃん、バレンタインデー用のお菓子作るって言ってたけど、何作るの?」
「星野さんにはまだ言ってませんでしたね」
 壁に吊ってあったホワイトボードとマジックを拝借して、わたしはさらさらっと今日のメニューを書き上げた。三分クッキングの歌をハミングしつつ、
「今日の献立は『アップルパイ』です」
「えっ、でもアップルパイって、リンゴが入ってるからアップルパイって言うんだよね?」
「リンゴと一緒にチョコをパイの中に入れるんですよ」と、すかさず渚が補足する。
「あーなるほどっ。うまいこと考えたね。全然思いつかなかったよ」
「前に試したことありますけど、結構おいしかったですよ」
「でも今日使うチョコレートはこれですけどね」そう言って鞄の中から今日の最終兵器を取り出す。カカオ99%。部長がまだいけると言ったチョコレート。
 今度は渚が驚く番だった。
「瀬奈、それはちょっとまずいんじゃ……」
「大丈夫、香りをつけるだけから」
「そ、そう……? 大丈夫かなぁ……」
「大丈夫だと思う」たぶん。「とりあえず始めよ? 時間もあんまりないし」
「うん、そうだね」
 ほへー、と机の上の材料を眺めている星野さんを現実に引き戻してから、わたし達はカカオ99%入りアップルパイ作りに取りかかった。
 無理矢理だけど場は作った。今のわたしにはこれが精一杯。勝手にやっておいて無責任極まりないけど、あとは星野さんの力に任せるしかない。


「渚ちゃんってさ、お菓子作り得意なの?」
 わたしがバターを一センチ角に切っているとき、シンクでリンゴを剥いている星野さんが口を開いた。同じくリンゴ係の渚は手を休めずにちょっと考えてから、
「得意ってわけじゃありませんけど、作るのは好きですよ。お菓子だけじゃなくて普通のお料理も作りますし」
「そっかぁ。いいなぁ。私不器用だから、料理とかあんまり出来なくって」
「そうですか? でも皮むき上手ですよ?」
 それから色々と話して二人がうち解けてきた頃、星野さんが不意に尋ねた。
「渚ちゃんって、淳ちゃんのことどう思ってるの? あ、今は森宮淳くんだっけ」
 ひやっとした。渚の手が一瞬止まる。けれど何事もなかったかのように動き出す。
「うーん、星野さんはどう思ってるんです?」
「えっとそうだなぁ……弟みたいな感じかなー。昔よく遊んでたし」
 それからしばらくの間、森宮君の過去――主に小学校だった頃の暴露話が行われた。自転車に乗る練習をしているときに電柱に真正面からぶつかったとか、初恋の相手が担任の先生だったとか、そういう他愛もない話。だけど星野さんがおもしろおかしく話すので、ついつい笑ってしまいそうになる。渚は実際、声に出して笑っていた。
 そして話題はいつしか、バレンタインデー方面に移っていった。
「渚ちゃんは今年誰にあげるの?」
「えっと、秘密です。なんだかこういうのって、渡す人言っちゃうの恥ずかしいですし」
「そうかなぁ」
「ちなみに星野さんはどうなんです?」
「私はきみまろオンリーかなっ」
「きみまろ?」目を点にして首を傾げる渚。
 すかさず補足する。
「星野さんの彼氏のあだ名だよ。というか、うちの部長だけど」
 そう言うと渚は「えっ……あー! 瀬奈がずっと前に言ってた」と納得した様子。どんなこと言ったんだっけ、わたし? ま、いっか。渚の表情も明るくなったし。
「ということは、一緒の大学に行くんですか?」
「うん。同じW大。さすがに学部は違うけどね。今度東京に試験受けに行くんだぁ。本命だから緊張するよー」
 凍り付いた。東京……? こっちじゃなくて……? うまく働いてくれない頭で状況を整理していくと、思わず乾いた笑いが漏れた。『地元の大学に行く』という大前提で、わたしは証拠隠滅を図った。その前提からして間違っていたのだ。ありえないことはどうやってもありえない。つまりわたしは、最初からただの道化でしかなかったってことか……。独り相撲もここまで来れば傑作だ。あまりにも滑稽で、バカらしくて嫌になってくる。
「どうしたの、瀬奈?」と心配そうな顔で渚が尋ねてくる。
 さて……だいたいバターと小麦粉が馴染んだことだし、そろそろカカオ99%を入れますか。おろし金でそれを端からガリガリすり下ろして、焦げ茶色の粉をどんどん投入していく。
「わあっ! 瀬奈ストップストップ!」
 パティシエ権限発動、おろし金が奪われる。


 途中、渚に蛮行を止められつつも、二つのカカオ99%半枚分配合アップルパイは何とか完成したのだった。直径はだいたいA4用紙の短辺くらい。見た目はチョコレート色で、リンゴとシロップの香りに混じって、チョコもきっちり自己主張してくれている。生地だけじゃなくて中にもチョコが入っているけど、さすがにそのままじゃなくてほんの少しミルクで希釈したものを使った。こっそり味見してみると普通のビターチョコだった。なんだ、つまんないの。
 ちなみにわざわざ二つ作ったのは他でもない、三人で試食するためだ。
 というわけで、いただきます。
「あれ、普通においしい」渚からそんな感想が漏れた。「瀬奈、結構入れてたよね?」
「うん」
 思っていたほど苦くなくて、むしろバターの風味やリンゴの甘さでほどよい加減になっている。つまり普通に美味しい。でもシナモン風味に比べたらあっさり感が少し落ちるかな。
 一方の星野さんは「ん~」とほくほく顔。よっぽどお気に召したようで、早くも二つめに手を伸ばしている。本当に子供みたいな人だなぁ。
 まあ、ひとまずは一件落着……と言っていいのかな?


 家に帰って携帯電話を見てみると、渚からお礼のメールが届いていた。そんなんじゃないのに。わたしは苦笑しながらも、『別にいいよ』とだけ返信しておいた。これも仕事のうちだ。
 リビングの時計を見てみると、針は六時半を示していた。
 さて、じゃあわたしもそろそろ始めようか。このバカげた茶番を終わらせるために。

         *

 三日後、ついにバレンタインデーがやってきた。教室の雰囲気がどこかそわそわしているのは、たぶん気のせいじゃないと思う。
 そんな空気を演出している人達は放っておいて、わたしは小さなセロファンの包みを涼子に手渡した。中身はチョコレートの入ったパウンドケーキ。退屈そうに椅子にもたれていた涼子が、訝しげな目で渡された包みを眺めて、
「なんだこれ? あたしは男じゃないぞ?」
「勘違いしないで。この前のお礼」
「ああ、サンキュー」
「ホワイトデーのお返し、よろしく」
 茶化してそう言うと、涼子は笑って「憶えてたらな」と答えてくれた。この前のお礼って言ったんだから、別に本気にしなくてもいいのに。
 しばらくして登校してきた渚にもケーキをあげると、お返しに似たような包みをもらった。トリュフチョコの詰め合わせ。形もきれいなまん丸で美味しそう。
「あんまり時間がなくて、手の込んだものじゃなくてごめんね」いや、充分だと思う。
「ううん、こっちこそ突然押しかけちゃってごめん」
「いいよ、瀬奈と星野さんのおかげで勇気もらえたから」そう言って微笑み、力こぶを作る真似をする渚。
「森宮くんにチョコ渡すの?」
 声を小さくして訊いてみると、渚は少し緊張した様子で「うん……」と首肯した。
「頑張って。応援してるから」
 わたしがそう言うと、渚は笑って「うん、ありがと」と頷いて、涼子に同じものを渡しに行った。その表情に、三日前まであった翳りはもう見えない。うん、もう大丈夫そうだ。
 さて、問題はわたしの方だ。


 放課後、部室のドアを開けると、十日ほど前とほとんど変わらない光景が目に入ってきた。
「こんにちは」
「出勤ご苦労」
 部長も部長席でノートPCに向かっている。ただしその側にはつい三日前見たばかりの白い箱がある。星野さんからもらったばかりなのか、まだ手を付けていないようだった。
「どうしたのかね、夏木君。そんなところでぼーっと突っ立って。寒いから中に入りたまえ」
 わたしはとりあえず言われたとおり、中に入って近くにあったパイプ椅子に腰掛けた。
「ところで、調査の方は何か進展があったのかね? あれからめっきり音沙汰ないが」
「今日はそれを報告しに来ました。今よろしいですか?」
「ああ、聞かせてもらおう」部長は立ち上がり、わたしの向かいに腰を下ろす。
「分かりました」わたしは学生鞄の中から資料を取りだして、机の上に置いた。
「簡単に言うと、全て誤解でした。二人の間に特別なものはなにもありません」
「根拠は?」
「調べてみると、森宮淳、旧姓七瀬淳は小学校の頃、星野さんの家の近所に住んでいたことが分かりました。また近所の方々の証言から、当時二人は仲が良かったそうです。ご本人に直接訊くわけにもいかなかったので、ここからは推測なのですが、恐らく二人は何らかの形で連絡を取り合っていたんだと思います。そしてある日、星野さんは森宮くんに連絡を取った。内容は恐らく、『バレンタインデーに渡すプレゼント選びを手伝ってほしい』」
「ほう、それで?」
「星野さんはチョコレート嫌いの部長に何を渡そうか悩んでいたんです。それも相当。わたしも二回、星野さんの買い物に付き合いましたから間違いと思います。最初の相手に森宮くんを選んだのは、部長と同じく男子であることと、部長との繋がりが全くないからでしょう。わたしだと部長に漏れる可能性がありますし。他の男子生徒を付き合わせるのは、たぶん後ろめたかったんだと思います」
「確証はあるのかね?」
「正直、ほとんど勘と憶測です。証拠は一応あるにはありますが、残念ながら物的証拠にはなりませんから」
 星野さんが十一日、渚に言っていたことを思い出す――『淳ちゃんのこと、どう思ってるの?』。あれはたぶん……。
「でもわたしは星野さんと森宮くんを信じます」
 わたしがそう締めると、部長は吹きだして笑い始めた。
「なるほど“信じる”か! 確かに! 確かに最後はそこに行き着くな」
「たとえ“事実”でも人が信じなければ“真実”にはなりませんから。逆もまた同じです。もっとも、今回は単なる証拠不足でこうなってしまいましたが」
「いや、これは元々依頼者が納得すればいいという類のものだから、それで充分だ。悲観することはない。早く友人に知らせて安心させてあげたまえ」
「そう仰る部長は、最初から疑っていなかったようですね」
「まあな。俺はあいつのことを信じていた」
「嘘ですね」部長の言葉を遮ってわたしは言った。胸の中でどろりとしたものが蠢く。
 部長は「なに?」と訝しげに目を細める。
 わたしは静かに深呼吸をしてから、最初から隠し持っていた言葉を口にした。
「部長、わたしを試していましたね?」
 部長は眉間にしわを寄せたまま何も語ろうとしない。静寂がわたし達の周りを包み込む。
 それを無視して続けることにした。
「最初からおかしかったんです。最初から材料が揃いすぎていましたし、森宮くんの経歴一つにしても、星野さんの家の近くに売り家があることなんて、家系図まで手に入れられる部長ならすぐに――少なくともあの日追跡調査をしたときに気づくはずです。そこから道筋を辿ることなんて、部長なら容易くできるはず」いつの間にか語気が荒くなっていた。まずい。深呼吸してみる――ダメだ、抑えが効かない。
 わたしの言葉を一通り聞くと、部長は自嘲めいた笑みを浮かべた。
「部長なら、か。随分と高く評価されているようじゃないか」
「これもわたしの推測ですが……あの日、部長は『昨日から何も食べていない』と仰っていましたよね? それは調査を行っていたからじゃないんですか?」
 一息でそこまで言うと、部長はふぅと長い息を吐いて、わたしの目を見て告げた。
「ああ、そのとおりだ」
「どうして――」
 わたしが言葉を終えるより先に、部長が尋ねてきた。
「夏木君、君は安楽椅子探偵というものを知っているかね?」
「ええ、まあ」言葉くらいなら。
「安楽椅子探偵とは他人に情報を集めさせ、自室に居ながらにして事件を解決するような探偵のことをいう。自分の足で情報を集める我々とは全く正反対の存在だ」そしてわたしを指差して、「君はまさにその典型だったのだよ」
「わたしが、ですか?」
「ああ。君はほとんど自分の足で情報を稼ごうとしなかったからな」眼鏡を上げて、「部長として心配だったのだよ、君が安楽椅子探偵ではなく新聞部員として行動できるのか」
 確かに思い当たる節はある。現に今回も、初めは部長に情報を提供してもらっていた。
「つまり、わたしが心配で今まで部長の座に居座ってたってことですか?」
 部長は笑って、
「まあ言ってしまえば、そういうことになるな」
「志望校を隠していたこともですか?」絞り出した声は若干震えていた。
 その瞬間、部長は切れ長の目を大きく見開いて、少し経ってから苦笑を漏らした。
「参ったな、もう漏れていたとは」
「隠していたんですか?」
「ああ」
「今まで、嘘をついていたんですか?」
「途中で志望校が変わって、言うタイミングが掴めていなかっただけだ――いや、これは言い訳だな。君の言うとおりだ、俺は嘘をついていた」
 部長の言葉が胸に突き刺さる。分かっていても、本人の口から聞かされると重さが違う。
「どうして……?」絞り出した声は震えていた。「どうして……」
「そんなに聞きたいかね?」
 わざわざわたしの意思を確かめるということは、きっとろくでもないことなんだろう。でもここで退いたら意味がない。こっちにも意地がある。わたしははっきりと頷いた。
 部長は「君は探偵の方が向いているのかもしれんな」と前置きしてから、改まった口調でわたしの顔を見つめて言った。
「夏木君の暗い顔を見たくなかったから」不意討ちで顔が熱くなってしまった。しかし部長の言葉は続く。「というのは表向きの理由で、本当は君の好意に気づいていたからだ」
 その言葉に私は凍り付く。
「――え?」
「卑怯ながら、君の気持ちを利用させてもらった。こうすれば君は動くと思ったのだよ。そういう意味で、今回の加奈の行動は渡りに船だった。おかげで君を試すことが出来たからな」
 心臓に直接氷を当てられたみたいだった。身体の熱が冷めていく。代わりに収まっていたどす黒い感情が鎌首をもたげ始めて、胸に針で刺されたような痛みが走る。それらを表に出したくなくて、わたしは部長から目を反らして、膝の上の手を固く握りしめた。
「俺が憎いかね? 心が痛むかね?」淡々とした口調で部長が尋ねる。まるで独り言のように。
 わたしがだんまりを決め込んでいると、部長はそっと立ち上がって、長机を回ってわたしの横――ちょうど入口を塞ぐようにして仁王立ちした。顔を上げて見てみると、近いことと逆行であることも手伝って、まるで壁でも見上げているかのような気分。正直ちょっと怖い。
 気まずい、針の筵のような沈黙。外から運動部のかけ声や吹奏楽部、軽音部の演奏する楽器の音が微かに聞こえてくる。ついでに自分の心臓の音も。早鐘を打つみたいに早い。
 そんな沈黙を破ったのは部長だった。
「夏木君、俺を殴りたまえ」
 その言葉の意味を理解するのにたっぷり三秒はかかった。たとえ分かったとしても脳がその結論を拒否した。そうやって三十秒ほど悶々とした挙げ句、
「――はい?」素っ頓狂な声が出た。
「いいから殴りたまえ。というか殴ってくれ。そうでなければ俺の気が収まらん」
 部長……
「マゾなんですか?」
「そんなお下品なことをさらりと言うな。違うぞ、これは漢のケジメというヤツだ」
 よく分からないことを言ってふんぞり返る部長。この人、案外不器用なのかもしれない。
 仕方ない。わたしは大きな溜め息をついて立ち上がった。
「分かりました。けどここからじゃ届かないんで、もう少し屈んでくれませんか?」
 部長が要望通り腰を落として中腰の体勢になると、わたしのちょうど目の前に部長の顔が来る。かなり近い。まさに目と鼻の先。
「……もうちょっと後ろに下がってくれませんか?」
「了解した」と部長は一歩、二歩下がる。ちょうどいい遠さだ。
「じゃあいきますよ」
「来たまえ」
 わたしは腰をひねって腕を引いて左ストレート――と見せかけてハイキックを思い切り叩き込んでやった。ハルタのローファーの先が部長のこめかみにゴリッとめり込む。見よう見まねで適当に放ったキック。けれど、部長は岩みたいに微動だにしなかった。遅れて親指の辺りに痺れるような鈍い痛みが走る。もしかすると爪が割れたかもしれない。
 部長はハルタを右側頭部に突き刺したまま、眼鏡のレンズに光を反射させてニタァと不気味な笑みを浮かべた。
「君の痛みはこんなものなのかね、夏木君」
 イラッとした。どろりとしたものがまた蠢く。
「君の味わった痛みはこんなものかと訊いている……!」
 違う、こんなものじゃ治まらない、治まるわけがない。どれだけ苦労したと思ってるんだ、このバカ部長は。結局独り相撲だったけど――いや、独り相撲だったからこそ余計に腹が立つ。その首謀者が今、目の前にいる。正直ボコボコにしてやりたい。腸が煮えくりかえりそうだ。
 でもその一方で醒めているわたしがいるのも事実。こんなことで治まるわけがない、どうせまたあとで後悔するだけだと告げている。
「ふん、君もつくづく不器用だな、夏木君」
 部長のその声で現実に引き戻される。わたしが不器用? 笑わせないでください。
「部長にだけは言われたくありません」
「そうかもしれんな。でも自分に正直に生きられん、自分と向き合えんヤツの方がよっぽど不器用だと思うが?」そう言って部長は唇の端を吊り上げる。
 カチンときた。トサカにきた。醒めている方の自分が呆れ果てる。でももう知らない。やってやる。わたしは上げたままだった脚を下ろした。痺れはほとんど取れていない。
「何を格好つけている、そんなくだらんもの犬にでも喰わせて自分に正直になりたまえ! そして君の熱い魂をその小さな拳にこめぶふぉあっ!」
 右ストレートが部長の頬にめり込んだ。完全な不意討ち。その瞬間、直に肉と骨を打つ衝撃、少し遅れて鋭い痛みが走った。肘や肩まで伝わってきてびりびりと震える。部長がたたらを踏む。その拍子に眼鏡が床に落ちる。
 けれど部長は倒れなかった。顔にはまだあのホラーめいたな笑みが貼り付いている。
 一方のわたしは、もう肩で息をしていた。指に、手に、腕に、肩に痺れるような痛みがある。心臓の音のせいで鼓膜もズキズキと痛む。たぶん心も。部長は痛くないんだろうか?
 ゆらぁり、と幽鬼みたいな動きで体勢を立て直して、部長はわたしをじっと見つめてくる。
「どうした、もう終わりかね? 君の感じた怒りは、悲しみは、痛みはこの程度なのかね!?」
 無防備な鳩尾に、今度はブローを叩き込む。でも外れて一番下の肋骨に当たって、人差し指がポキッと間抜けな音を立てた。大丈夫、痛くない。音が鳴っただけで折れていない。
 それでも部長の笑みは崩れない。不気味なその表情を変えたくて、そして部長を跪かせたくて、わたしはまた部長を殴った。色んなところが痛んだけれど、心の中の何かに引火してしまったみたいにそれは止まらなかった。言葉ですらない叫びが喉から漏れた。指が手が部長の血で汚れる。激痛が走ってそこに自分の血が混じる。痛みで涙で視界が滲む。もうわけが分からない。時間の感覚がなくなっていく。痛みがぼやけてくる。部長は鼻血を出して、頭からも血を流している。それでも倒れなかった。不気味な笑いも崩さすに。
 どれくらいそうしていたのかは分からない。もしかすると何時間もやっていたのかもしれない。少なくともわたしにはそう思えた。
 でも最後は呆気なかった。右ストレートを顎に放った途端、部長は嘘みたいに簡単に倒れた。同時にわたしも部長と同じように段ボールの山へとダイブした。ホコリと紙のにおいのする空気が肺を満たす。自分の手を改めて見てみると、擦り傷だらけで血まみれだった。当然だ。血を出している人を殴れば誰だってそうなる。
 バカらしくなってきた。こんなことをしていた自分が、そしてなぜか清々しい気分になっている自分が。
「いい顔をしているじゃないか、夏木君。実にいい顔だ」
 いつの間にか立ち上がっていた部長が、血と痣と擦り傷まみれの腫れぼったい顔でそう言った。たぶん笑っているのだろう。普段なら爽やかな笑顔なんだろうけど、今の顔だとホラーの領域を超えてもうギャグにしか見えない。不覚にも声を出して笑ってしまった。そんなことを思っている自分の顔もたぶん涙と鼻水まみれなんだろう。そう思った瞬間、急に恥ずかしくなってきた。今日はティッシュ持って来てたっけ。
 本当にバカだ。部長も、そしてわたしも。でも、こういうのも悪くない。
 だからわたしは言ってやった。
「部長もいい顔してますよ。星野さんが見たら卒倒するくらい」
 部長の手を借りて立ち上がったとき、わたしはあることに気づいた。何故かは分からないけれど、胸の中にあったどす黒い感情が消えていたのだ。要するに部長はストレス発散用人間サンドバッグだったというわけか。
 もしかするとわたしは部長が憎かったのかもしれない。星野さんの方ばかり見て、自分のことを全然見てくれない部長が。詩人みたいな喩えをするなら、あのタールみたいなものは、わたしの夢の欠片が焦げ付いて出来たものなのかもしれない。
 でも今この瞬間だけ、部長はわたしだけを見てくれている。もうそれだけで充分だった。
 顔をひととおり拭いて手と腕の手当をしたあと、わたしは部長にはっきりと言った。
「部長、大好きでした」
 部長は特殊メイクみたいな顔で笑って、
「すまないな、もう一番目は埋まってしまっているんだ。二番目以降なら空いているが?」
「ならいいです。わたし、こう見えても負けず嫌いですから」
 そう言うと、部長はいきなり吹き出して腹を抱えて笑い出した。自分の脚をバシバシ叩いて、目尻から涙まで流している。わたしもつられて笑った。ちょっとだけ胸の中に湧いた悲しみを吹き飛ばそうとして。
 笑いながら腕時計を見てみると、五時三十八分二十三秒だった。たぶんわたしは一生この時間を忘れないだろう。忘れてやるもんか、意地でも憶えていてやる。
 ひとしきり笑った後、部長から『新聞部』と書かれた腕章を渡された。
「何ですか、これ?」
「部長の証だそうだ」
「でも着けてるところ、全然見たことありませんよ?」
「ああ、イマイチ好きになれんかったのでな」おいおい。「こういうのは飾りであって、大事なのは心の持ちようなのだよ」
 分かったような分からないような……。
 あ、そういえばわたしも部長に渡すものがあった。鞄の底の方をさらって、わたしはパスケースとCD-Rの入ったクリアケース、そして五〇〇ミリリットルの紙パックサイズの白い箱を長机の上に置いた。
 部長はパスケースとクリアケースを指差して、
「なんだね、これは?」
「例の写真と、それの元になってる画像ファイルです」
 その言葉を聞いた途端、部長が「うげっ」とあからさまにたじろぐ。
「で、君はそれをどうしたいのだね?」
「部長にあげます。わたし、もう部長を――綾小路先輩を卒業しますから」
「卒業するのはこっちなんだがな」
「なら卒業祝いってことでもらってください」
 そう言ってわたしはそれらを綾小路先輩の方に寄せた。半ば押しつけるような形になったけど、部長は渋ることなく受け取ってくれた。
「それじゃ、わたしはこれで失礼します。受験、頑張って下さいね」
 わたしはそう言うと、綾小路先輩の返答を待たずに部室を出た。彼にあの箱の中身を訊かれるのがなんとなく恥ずかしかったから。
 中に入っているのは、綾小路先輩専用特製チョコレート入りパウンドケーキ。使ったチョコレートはもちろんカカオ99%。しかもこっちはたっぷり一枚分配合だ。嫌な子であるわたしからのささやかな復讐。その圧倒的な苦さに小一時間悶えるがいい。


 下校している途中で、携帯電話に着信メールが入っていることに気づいた。差出人は渚。内容を見てみると、『告白うまくいったよ! ありがとう!』とハートマーク付きで書かれていた。短いその文面から渚の喜び具合が伝わってくる。星野さんの言葉からの推測通り、二人は両想いだったらしい。正直ちょっと羨ましい。
 ちょっとだけバレンタイン司祭に感謝してから、『よかったね』と返信メールを送った。別に祝福していないわけじゃない。単純にわたしが不器用なだけだ。

         *

 翌日。下校途中に駅前をうろうろしていると、神出鬼没の屋台『虎の穴』が目に入った。傍らにあるチープな立て看板には『営業中』の文字。
 暖簾をくぐると、篠崎先輩が威勢の良い声で出迎えてくれた。わたしの姿を確認すると、よっぽど驚いたのか狐みたいに細い目を一瞬だけ見開いて、そして元の能面みたいな笑みに戻る。
「おお、アリスじゃん。二週間くらいぶり~。ところでその手どうしたの? なんだかミイラみたいになっちゃってるけど大丈夫?」
「親父、ラーメン。もやしとネギ多めで」
「ぁいよぉっ!」
 パブロフの犬もかくやという料理人ぶりを発揮して、先輩は早速調理に取りかかる。わたしはその間に言葉を纏めることにした。この事件の顛末、そしてわたしの奇妙な恋の行方をこの知りたがりの『覗き魔』さんに聞かせるために。伏せるところは伏せないといけないしね。
 ラーメンを食べ終わってから、わたしは頭の中で考えていたとおりのことを篠崎先輩に話した。先輩は能面笑いを本当の笑みに変えて、
「へえ、そっかぁ。ついにアリスも不思議の国から帰ってきたか~」
 よく分からないことを言うと、なにやらごそごそとクーラーボックスの中を漁って、
「そんなときは……はい、これ」そう言ってわたしの目の前にあるものとプラスチックのスプーンを置いた。ティラミス。それもコンビニで二百円くらいで売っているようなヤツ。
「なんですか、これ?」
「あれ、知らない? ティラミスはイタリア語で『私を元気づけて』って意味なんだよ」
「……もしかして慰めてくれてるんですか?」
「あっれぇ、僕ってそんなに信用ないかなぁ? これでも結構責任感じてるんだよ? 加奈ちゃんの存在教えたり、アリスにけしかけるようなこと言っちゃったしさ~」
 先輩にしては珍しくいいことを言ったあとで、「まあ、僕も結構楽しませてもらったから、これはそのお礼ってことで」と色んな意味で台無しな台詞を付け加えてくれた。少しでも感動した自分が心底バカらしくなってきて、思わず大きな溜め息が漏れる。
「前々から疑問に思ってたんですけど……」
「なに、アリス?」
「篠崎先輩ってイイモンなんですか、ワルモンなんですか?」
 すると先輩は「あっはっはっはっ」と無駄に爽やかな笑い声を上げて、
「いやあ、さすが『ハードボイルド・アリス』、耳が痛いよ全く」と質問を煙に巻いたのだった。本当によく分からない先輩だ。でもティラミスはきっちりいただきます。
 ティラミスを食べ終わった頃、先輩がわたしの顔をじっと見つめていることにようやく気づいた。目が細いから分かりにくいことこの上ない。
「――なんですか?」
「いや~、いい顔してるなぁって思ってさ」
 そんなにいい顔してるのかな。わたしにはよく分からなかった。でも男の人には分かるのかもしれない。素直にそのことについて尋ねてみると、先輩は難しい顔をして首を傾げた。
「いや、何となくなんだけどね。憑き物が落ちたっていうか、何というか」
 ああ、なるほど。そういうことか。それなら何となく分かる。今のわたしの心は、どこかこの前までの自分とは違う気がするから。
 だから今日からわたしは『ぶきっちょアリス』。ハードボイルドでもなく、煮え切らない半生でもなく、ただの不器用でバカな女の子だから。

         *

 こうして今回の騒動、そしてわたしの初恋(たぶん)は終わりを告げた。享年二歳。二月十四日・十七時三十八分二十三秒、永眠。ご愁傷様、わたし。合掌。
 ドラマとかマンガとかだったらもっとマシな形で終われたんだろうけど、今のわたしにはこれが精一杯。ここまで流血沙汰になる恋も珍しいと思う。ホント、バカみたい。想いの丈を拳でぶつけたなんて言ったら、きっと渚は卒倒して、涼子は笑い死にするだろう。
 でも、わたしはこの結末で満足している。全然冴えてなかったけど、お世辞にもこれでいいのだとは言えないけれど、これはこれで悪くないと思えるから。


【後書きに代えて/エピローグ】

 ノートPCに文章を一通り打ち終えると、わたしはうーん、と思い切り伸びをした。久しぶりにこんなことしたから、思っていたよりも疲れてしまった。目も若干ドライアイ気味で、見慣れた部屋の風景が少し霞んで見える。
 これから話すのは、ちょっとした後日談。
 部長を殴り倒した翌日、包帯でぐるぐる巻きにされたわたしの両手を見て、涼子が「やったヤツは誰だ。叩きのめしてやる」とキレかけたり、渚が文字通り卒倒しかけたりしたけれど、それ以外は特に大事には至らなかった。骨にも異常はなかったし、手のそこら中にあった擦り傷も今じゃほとんど残っていない。
 一方の元部長・綾小路先輩は何だか凄いことになっていたそうだ。駅前でまた星野さんと会ったときに聞いたところ、顔がマタンゴみたいになっていたらしい。喩えがよく分からないけど、たぶんもの凄い状態なんだろうということだけは辛うじて分かる。ちなみに原因について綾小路先輩は一切語らなかったらしく、そのとき星野さんは何か知らないかと尋ねてきたけれど、ボッコボコにした張本人であるわたしが正直なことを言えるはずもなく、結局『きみまろマタンゴ化事件』はそのまま迷宮入りしそうな雰囲気。ごめんなさい、星野さん。
 告白に成功した渚はというと、森宮くんとはうまくいっているようで、たまに惚気話を聞かされるのが少々難儀だけど、めでたしめでたしといった風。そのときちょっとだけ涼子が不機嫌になるのは、同じ日に後輩の女の子に告白されたから。まあ、涼子は男子よりも男らしいところがあるから、しょうがないと言えばしょうがないんだけど。
 そのとき、机の上に置いてあったデジタル時計がアラームを鳴らし始めた。どうやらもう時間らしい。
 さて、そろそろ行こうか。ノートPCを終了して、デジタルカメラとショルダーバッグを持って家を出る。篠崎先輩からの情報によると、今日は綾小路先輩と星野さんが東京に出発する日だ。見送りなんて想像もしていないだろうから、二人はきっと驚くだろう。勢い余って星野さんが綾小路先輩にドロップキックを放ってしまうかもしれない。
 玄関で見上げた空は、雲一つ無い快晴だった。その蒼さは思わず溜め息が漏れるほど。今日は何かいいことがあるかもしれない。
 わたしは自転車に跨り、冴えわたった空気を胸いっぱいに吸い込んでから、二人がいる駅へ向けて走り出した。

        〈了〉
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